嵐の気配がぎゅんぎゅんします!(崇仏論争編)
前回は途中で失礼しました。大臣の蘇我氏VS大連の物部氏の対立をますますエスカレートさせていたのは、大王(天皇)側にも原因があったことを前回ご紹介しましたが、現在のように皇位継承の方法がきちんと決まっていなかったことも、混乱に拍車をかけました。というのも、皇位継承に関するきまりがなかったため、親から子へという場合もあれば、兄から弟へというパターンもあったりと、バトンタッチもなーんかいい加減(?)でしたし、皇太子制度(あらかじめ候補者を特定しておく制度)も存在していなかったので、極端にいうと「だれが天皇になってもおかしくない!」という無法状態だったのでした。あ、もちろん天皇家の血をひかないとムリですけどね(^ ^;自分の息のかかった天皇候補者を出し、優位に立とうと張り合う蘇我氏と物部氏でしたが、あらそいのタネはそれだけではありませんでした。もうひとつのタネ、「崇仏論争」を紹介しながら、今日は「赤コーナー!新規参入代表(楽天さんも来シーズンからがんばって♪)蘇我氏!!」対「青コーナー!古株代表(巨人はソフトバンクに人気取られているそうですね…)物部氏!!」の泥仕合をみていきますね。さてまずは青コーナー物部氏からご紹介。氏姓制度の特集でちょこっと説明しましたが、物部=モノノフ(武人)・モノノグ(武器)という意味から明らかなように、軍事力でもって大和政権にずっとお仕えしていた、古株の名門豪族でした。かたや赤コーナー蘇我氏は、欽明天皇に信頼されてメキメキ出世をとげた新規参入豪族でした。物部氏のような軍事力はありませんが、朝廷の財政権を任されていたため、新人さんといえども一目置かれる存在でした。たとえは変ですけど、奥さんにお財布のひもを握られてしまうと、ダンナさんは頭が上がりませんものね~。古株と新顔のあいだでは今でもなかなか意見が合いませんが、この当時も同様で、百済から伝わってきた新興宗教・仏教をわが国でも受け入れるかどうかで、両者は火花を散らすことになります。これを「崇仏論争(仏教を崇拝するかどうか否かの論争の省略形ですな)」と呼んでいます。皆さんおなじみだと思いますが、仏教はお釈迦さまがひらいた宗教で、発祥の地インド北部から様々なルートをつたって広がっていき、日本へは中国-朝鮮半島(百済)経由で、538年(552年という説もあり)に伝わってきたといわれています。が、百済といえば渡来人!つまり、日本に移住した渡来人たちが仏教を信仰していた可能性は大なので、それ以前から少しは知られていたのかもしれません。このように仏教はアジア世界でちょっとしたブームをおこしていました。国際社会の波を受けて、日本でもこのブームにのるかどうか話し合いがもたれます。賛成派の代表は大臣・蘇我稲目(そがのいなめ)。彼は渡来人とのつながりが深く、仏教の受け入れによって多くのメリットが得られることを計算していました。仏教は今風にいえば「メディアミックス」(あまり詳しくはないんですが、一つの素材を、原作~マンガ~アニメ~グッズ等々、多方面にわたって展開する手法といえばいいのかな?)みたいなもので、教えのかかれた経典はもちろん、経典に伴う高度な理論や学問、仏像&その制作方法、お寺などに象徴される土木建築などなど、日本が学ぶべきものがたくさん秘められていたのでした。さらに、渡来人たちのもつ先進技術や高度な知識を、今後もありがたく利用させてもらうためにも、彼らの信仰していた仏教を正式に認めさせて、ハートをわしづかみにする…そういう狙いもあったと考えられています。一方の物部尾輿(もののべのおこし)はどうかというと。「ただでさえ新参者は目の上のタンコブなのに、蘇我氏は国家財政を一任されているうえに、渡来人たちとつるんで何かと生意気な行動をみせておる。そして今度は得体のしれん仏教とやらを、わが国の宗教として受け入れようとほざいとる…ケシカラン!!」と鼻息荒らし。確かに気持ちは分かるよーな気がします。仏教はもちろん立派な教えですが、この段階では「よく分からんケッタイな新興宗教」にすぎませんし、第一日本には昔からたくさんの神々がいらっしゃいましたからねえ。この崇仏論争は結局、「蘇我氏だけに信仰を認める」というカタチでムリヤリ決着をつけましたが、朝廷内部は依然崇仏派(代表蘇我氏)・排仏派(代表物部氏)に分裂したままでした。物部尾輿の子、物部守屋(もののべのもりや)は自ら寺に行き、塔を切り倒し、仏像は海に捨てるなど、相当な嫌がらせをしたそうです。親同士の対決は、子どもにも引き継がれました。今度は蘇我馬子(そがのうまこ)VS物部守屋という構図です。この二人の対立がさらにこじれたのは、崇仏論争の他に「皇位継承問題」がからみ合っていたからでした。ここで、ふーっと一休みしながら、系図をごらん下さい。今までお疲れ様です。私もお茶でもしようかな。皇位をめぐるあらそいは、病弱だったらしい用明天皇の死後起きました。もともと用明天皇は馬子がバックアップした天皇で(用明天皇のお母さんは、馬子のきょうだいでした)、「このままでは負ける!」と思った守屋は、自分の応援する穴穂部皇子を次の天皇にするべく暗躍していたそうです。(穴穂部皇子も馬子からみたら甥にあたるんですけどね~。仲が悪かったのかなあ?理由は不明です)用明天皇が亡くなった後の馬子の行動は、たいへんすばやいものでした。自分にとって都合の悪い穴穂部皇子を殺害させ、守屋をもこの際いっきに滅ぼしてしまおうと兵を集めたのです。守屋も軍をひきいて戦います(守屋みずから木の股にのぼって、見下ろしながら雨のように矢を射かけて奮戦したそうです。なんか先頭に立つのが好きな人ですなあ)。が、守屋が射殺されると物部軍はたちまち総崩れになりました。この戦いによってついに大臣・大連の対立に終止符がうたれ、蘇我馬子が権力を独占したのです。蘇我馬子は次の天皇に穴穂部皇子の弟、崇峻(すしゅん)天皇をたてますが、二人の仲はしっくりいきませんでした。それどころかどんどん険悪になっていったそうで、崇峻天皇のもとに猪が贈られた際、彼は猪を指さして「この猪の首を斬るように、いやなヤツの首を斬ってしまいたい」とつぶやいたと言われてます。それが事実なら、「やられる前にやるしかない!」と馬子が切羽詰った気持ちになったのも分かりますが、本当かどうかイマイチ疑問。ムリヤリ口実を作った感じもするし…。それはともかく、馬子はついに崇峻天皇の暗殺を決心し、東漢駒(やまとのあやのこま)という人物に殺害させたのでした!しかし暗殺はやっぱり方法としては下の下。朝廷内での蘇我氏の立場も微妙になりました。今までは蘇我氏寄りの天皇をたてるために頑張ってきましたが、天皇を殺害したあとでそれをしてしまうと、反発をまねくどころか蘇我氏への不満爆発!!のおそれもあります。そこで、朝廷で一目置かれていた大后(おおきさき)・炊屋姫(かしやきひめ)の存在が急浮上してきました。女性の身でありながらなかなかの政治力をもち、欽明天皇の皇女という血筋からいってもカンペキな彼女を、リリーフ(中継ぎ)として天皇に立てようと考えたのです。では、だれのリリーフなのか?それは厩戸皇子(うまやどのおうじ)のためのリリーフでした。用明天皇の子ですから皇位継承者として問題なかったのですが、彼は蘇我氏の血をバリバリひいていたので(父の祖母、母の祖母はともに蘇我稲目の娘であり、彼自身も馬子の娘を嫁さんにもらってます。蘇我氏の糸でがんじがらめですね…)、暗殺直後に天皇とするのはあまりにあからさま、そこで推古天皇にお茶をにごしてもらって、皆が忘れた頃に厩戸皇子ご登~場~!というシナリオを馬子は描いていたのではないか……と思われます。むろん本当のところは分かりませんが、592年、蘇我馬子の思惑により、初の女帝・推古天皇が誕生しました。推古天皇を支えるのは若き秀才厩戸皇子(聖徳太子)とベテラン政治家蘇我馬子。この三人のタッグが組まれて、新しい時代(飛鳥時代)が幕を開けます。長い長い権力闘争が終わってみれば、激変した世界情勢からは取り残され、大和政権の内部は古びてガタガタ、外交も半ばほったらかし状態などなど、三人の前には山ほどの難題が突きつけられていました。「しかし、俺らがやらねばだれがやる!」とばかり、三人の挑戦が始まります!では次号☆昨日の分まで書いた、書いた、書きまくった……よーな気がします。ここまで読んでくださった方、ほんとうにお疲れ様でした。次はもうちっとコンパクトにいきますね。私の身ももたないし(^ ^;あと、このあたりの時代をもっと知りたい!という方には、ぜひ山岸涼子さんの「日出処の天子」をオススメします。歴史マンガのおすすめを募ったところ、プータロさんからこの漫画を推薦してもらいました。ストーリーもたいへん面白いのですが、読んでいるうちに自然と勉強できちゃうので本当にすばらしい作品です。プータロさん、どうもありがとうございました!