29歳が転機の年となった
今振り返ると、20代は走り続けていた。仕事をしながら、猫の保護活動もしたし、新たな友人との関係も密になっていた。結婚生活もあった。このことは後半で触れるが…。そして20代最後の年。 誕生日を超え、4月に入るか入らない頃のこと。小学館のプチセブン編集部から、中森明菜ちゃんの初めての本の構成を依頼された。デビューして2曲めがヒットした直後。本のタイトルは「本気だよ~菜の詩・17歳~」明菜ちゃんの自伝となる本で、構成を任されたのはとても光栄なことだった。その発売の約1か月後。最愛の祖母が、彼岸の向こうに旅立った。88歳…。父方の祖母で、一緒に暮らした。無償の愛を存分に注いでもらった。子供の頃から、この日が来ることをひたすら恐れていたので、とにかく辛かった。 そこから約4か月。初秋のある日のこと。私は歩いている時に、息苦しさを感じるようになった。始めは自分の体に何が起こっているのか、理解できないでいた。休めば息苦しさから解放されることがほとんどだったので、様子をみた。でも、ある日、発作は突然やってきた。朝から呼吸がきちんとできない。夫に抱えられ、すぐ近くの診療所へ行った。病名は「成人成性気管支喘息」子供の、アレルギーマーチ上に起こる喘息とは別の、もっと重い状態の喘息。その場で気管支拡張剤を入れた点滴を受け、一時的になんとか症状は治まった。同時にアレルゲン検査を受けたが、ハウスダストにすら反応がない。何度か通い、結論とされたのは…「心因性の喘息」。それも夫との関係が原因…。7歳半年上の彼と結婚したのは、21歳10か月のこと。前のアテネ・フランセの彼は、誰が見てもアウトローな感じだったが、夫となった人は、育ちのよさがにじみ出ている人だった。後で知ったのだが、父親や叔父は超有名文化人。彼も物知りで、品もあった。我が父も、前の失恋を知っている分、今回はほっと胸を撫で下ろしたようだった。ところが結婚して一週間も経たないうちに、女性から電話が来るようになった。「ちょっと、籍を入れたんですって? 信じられない。はやく別れなさいよ」。一人だけじゃなかった。彼は見かけがよいので、かなりモテる人だったのだ。しかも夫は、そんな電話でも切ることなく、相手と普通に話し続ける。ずっと、ずっと、女性関係に悩まされた。それでも私は、結婚とは生涯添い遂げるものだと信じていたので、我慢していた。コップの水が溢れ出すように、我慢の限界となったのはカップルでよく遊びに来ていた彼の友人の、女性の方からの手紙。ある時、本の間に挟まっていたものを見つけ、つい読んでしまった。そこには…「あの夜のことは忘れられない。でも貴方は私のことは好きではないよね」彼女には、夫の女性関係の悩みを長年に渡り打ち明けていた。彼女も真剣に相談に乗ってくれた。私より年上で、姉のように慕い、信頼していた。彼女を責めると、笑いながら「だから子供だって言われるのよ。ただの遊びじゃないの、遊び」、そう答えた。それらのショックが引き金となって、喘息を引き起こしたのだろうと、担当医。成人成性の喘息は救急車が間に合わずに亡くなることもある病気。 当時は現在のような発作予防の吸入薬もなかった 。私は決断を迫られた。夫と話をして、女性関係を断ってくれるよう、頼んだ。でも、答えは「NO」。無理だと言う。「だって男だから。解るだろう?」と。そして夫は離婚するつもりはないと言い、幾度も「本当に別れたいの?」と尋ねる。夫とは、対異性関係に関しては、まったく価値観が違う。そして何より…彼と私は、私の望む形の夫婦ではない。別れるしかない。そうでないと、このまま発作が続いたら、私は死んでしまうかもしれないのだ。結果、猫達がいることを考え、私が残ることとなり、夫はマンションを出て行った。私が30歳になる直前だった。