毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2
にほんブログ村 愛知県豊明市のコンクリート像、身代わり弘法の続きです。まずは、先回ご紹介できなかった像のご紹介から。二体の弘法大師像の像の間には、少女の像があります。いわくがありそうな少女像。一方の足が裸足なのにも、意味があるのでしょう。弘法大師が抱く赤ん坊、そして水子弘法の名称にも背景があるのでしょう。さらに御堂もあります。内部には、12体の弘法大師像。「身替り弘法」として説明の木板があります。木板には、この12体の弘法像が「江戸時代後期の瀬戸の名陶工 弘法善治」が製作した「千体弘法」の一部と記されています。木版の記載日は「明治9年4月吉祥日」。この「身替り弘法」が、本来の「身代わり弘法」だと思われます。では、コンクリート像は何でしょうか。それは傍にある2本の石柱にヒントがあります。2本の柱には、下記の記述があります。「毛受兄弟四百年祭に當 昭和五十七年四月 十五代毛受善市建也」「昭和五十七年癸亥年正月 初代毛受組建之」つまり昭和57年に、初代毛受組の毛受善市という人物が建てたとあります。毛受家の子孫は、多くが水野に改姓しています。そのため毛受は全国で1,200名しかいない姓で、そのうちの840名が愛知県在住です。特に豊明市には、毛受姓の方が多くおられます。善市という人物は、毛受兄弟の家系なのでしょう。では、コンクリート像の作家は誰でしょうか?像は昭和57年(1982年)製とあります。つまり作家は、後藤鍬五郎(1976年没)や浅野祥雲(1978年没)ではあり得ません。また、高見彰七とも作風が異なります。毛受組というのは建設業者。セメント会社も傘下にあります。作家は、毛受組の職人か、毛受善市自身なのでしょう。ただ作家が誰にしても、その技量はかなりのものです。これらのコンクリート像は、昭和57年の400年祭に、毛受組の作家が造った。そうですよね、弘法大師様。【前の記事】 毛受兄弟記念の謎のコンクリート像1【 戦国武将せんべい 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから >にほんブログ村