企画・企画書のヒント-“なぜ”から考える58-なぜ、罰が作文なのか?
それは“なぜ”なのか、理由がわかることで、見えてくることがある。あたりまえと思っていることでも、“なぜ”当たり前なのかはわからないことがある。そんな“なぜ”を、日常の世界から探し、考えることで、企画や企画書づくりのヒントにしようというのが、このシリーズの趣旨。しかし、この、“なぜ”のその探究には、著者なりの主観や直観、推測、憶測、感覚、本能、そして何よりも企画マンとしての資質が含まれている。なので、読者の方は、ここに書かれていることを簡単に信じないで、自分なりにとらえ、解釈、思考、分析してから、自分の意見として採用するように。●なぜ、罰が作文なのか?作文は、人を育てるという大切なことがわかっていないからである。<見方>ワタミ渡邉美樹氏の著書『もう、国には頼らない。経営力が社会を変える!』は、とてもすばらしく、ビジネスマン、公務員はもちろん、学生も主婦も、日本人も含めすべての人類におすすめしたい本である。しかし、1つだけ反論したいところがある。渡邉氏が経営する学校で「この学校では、遅刻をしたら反省文を原稿用紙10枚書かせます」というところである。原稿用紙10枚といえば、400字×10枚、つまり4,000字である。遅刻した理由には、寝坊した、夜更かしした、というぐらいしかないだろう。そのようなことを4,000字も書けるわけがない。書いても意味がない。私のような、ひねくれものならば、書ける、というか、書いてしまうだろうが。この書ける内容があるかどうかという問題よりも、反省させる方法が作文ということのほうが大きい問題である。なぜ、長文を書かせる作文が反省なのか? そこには、反省させるにはつらいことをさせる必要があり、辛いことは作文をさせること、それも長文を書かせることだという認識がある。遅刻は悪いことだ。しかし、反省のために長文を書かされた人は、作文嫌いになりやすい。こういう作文はつらい。それに加えて長文を生む辛さが身にしみる。作文を反省行為としてやらせることが何を生むか、そのことを考えないといけない。自分の考えを文章にする、他人にわかってもらうように工夫して書く、このことは決して辛いことではない。むしろ、伝える、伝わることの楽しさ、喜びを生むものなのである。これこそが、10代の時期には大切ではないのか。こうやって表現力、創造力を磨く。作文行為は、人を育てるのである。社会人ならともかく、高校生に反省してもらうのに、作文という手法を使うこと自体私は反対である。もし、使うとしても4,000字もいらない。4,000字には、意味がない。自分が何を反省しているのか、を明確に書かせればそれで済む。同様な行為に、罰として走らせるということがある。だから、みんな走ることがキライになる。**********************************有限会社リレーションメイク 羽切 徳行企画書作成サービス事業企画書書き方事例企画書書き方事例集本を実際に出版できた出版企画書企画・企画書Wiki企画書サンプル企画・企画書用語集