陶淵明 飲酒二十種「其の七」(菊酒) そして甲賀忍法帖
まずは、前回の続きから、陶淵明(4世紀ごろ)の菊酒のお話。菊水伝説は、まさに4世紀ころから広まったと言う。これは、菊の群生地にある河の水を飲んで暮らす里人が、長寿の仙人である。という伝説で、古来薬効のある菊の成分が川水に染み出したとされる。この伝説から、菊酒の習慣が発していると言われる。残念ながら、現時点では「四世紀の本」としか確認できず、正確な出典がわからなかった。国立歴史民俗博物館「くらしの植物苑」(2002年10月21日)(参考)また、中国で菊酒というと、文字どおり菊から作るものだという記事をみつけた。梅酒やハーブ酒の一種と言える。(参考)が、件の詩には、はっきりと「秋菊」を「つみ」「うかべて」と詠われている。浮かべて飲むのが一般的でないとすれば、陶淵明一流の風雅であったのかもしれない。菊を浮かべて飲むのは、中国古来の風習だとする説も散見されるが、こちらも出典を明記したものが見つけられず、真相は藪の中。 以下の記事中に、4世紀に結婚式の祝い酒として、紹興酒を美麗な絵付けをした甕に入れたという記述がみえる。紹興酒関連記事透明なお酒ではなくて、もしかしたらあの飴色のお酒に、黄色の菊を浮かべたのだろうか。食用菊は、日本だと黄色とピンクを思うが、菊水伝説関連では、「白菊の群棲」という記述もみつけた。色彩的には、紹興酒なら白菊がよさそう。wikipedia の参考文献にある、花井四郎『黄土に生まれた酒 - 中国酒、その技術と歴史』東方書店、1992, ISBN 4-497-92357-6.も気になるが、未読。まあ、そんなこと忘れて、ゆるりと独り、杯を重ねるのが吉。呑まないひとも、独り気ままに夜空でも眺めれば、イササカ マタ コノセイヲ エタリである。最後に、本文を載せておく。手持ちのテキストと一部表記が違うが、「陶淵明 詩と構想の世界」さんから読み下しをコピーさせていただく。なお、忘憂の物 とは酒であり、駒田信二『漢詩名句 はなしの話』の註によれば、『詩経』のなかの一遍にたいする毛伝(毛チョウの註)に由来する。 秋菊有佳色 秋菊 佳色あり 衷露採其英 露を衷みて其の英を採り 汎此忘憂物 此の忘憂の物に汎べて 遠我遺世情 我が世を遺るるの情を遠くす 一觴雖獨進 一觴獨り進むと雖ども 杯盡壺自傾 杯盡きて壺自ら傾く 日入群動息 日入りて群動息み 歸鳥趨林鳴 歸鳥林に趨きて鳴く 嘯傲東軒下 嘯傲す東軒の下 聊復得此生 聊か復た此の生を得たりそして、イササカ唐突に、甲賀忍法帖である。実はこの小説、飲食の描写が皆無。たったひとこと「宴もつきて」と言うような言葉はあるのだが、実際の酒宴なども無い。菊酒のことばかり考えていて、ふと、気づいた。時代劇といえば酒宴、剣豪と言えば酒、という概念に毒されていたが、そんな画面は不要とする作家もいるのだなぁ。以前から読もう読もうと思いつつ機会がなかった一冊。近年、映画や漫画で流行したが、古本に案外出ない。100円本を唯一みかけたとき、「最近はやったから、もっと安くでるかも」と見過ごしてしまい、後悔している。結局420円の角川文庫版を購入。用もないのに、初版&美本。読めればいいものに限って、こういうものが手に入る無駄。文体はスッキリと読みやすい。どこか岡本綺堂を思わせる、淡々とした語り口。一気に読了させる、展開のうまさ。見た目にも読みやすい、表記法も含めた、天性の文章力。残酷美。非恋の結末も、ただ美しく悲しい情景ではなく、グロテスクとも言える描写で閉める。そして一転、高く飛翔する結びの一文。全体を通して、実に空間を感じさせる作品だった。娯楽小説なので、葛藤だとか人間性だとか、そういうところは、物語のキッカケや彩どりにすぎない。そのあたり、文学作品と主客転倒しているのが面白い。ある時代の、古い文体、古いスタイルなのだが、現代の若者にも受けている模様。現代大衆小説における、曲亭馬琴くらいの位置づけにされている節もある。映画 shinobi と アニメ バジリスク~甲賀忍法帖~ も観る機会を得た。どちらも、朧さん(ヒロイン)視点に重点がある感じ。アニメにいたっては、各人物のサイドストーリーを加えたために、ますます弦の介が希薄な存在になっている。原作ファンからも受け入れられた漫画化をアニメにしたそうだが、私、朧の絵柄はかなり苦手で、イメージも視覚的に違う。そして、忍びのくせに、皆いちいち凶相を呈して憎しみをぶちまける。原作には、虐殺的なホリックはない。残虐美といえば、もう少し様式的で静かである。原作世界の表現には、こうしたバイオレンスはなかった。ニタリである。ニッと笑う凄惨な笑みである。岡本綺堂にもよく出てくる、あの、うすら寒い笑みである。にんまりでもなく、にやりでもない。ここは西洋的肉感ではなく、日本怪談的ゾッとするような笑みこそふさわしい。西洋ホラーみたいにズガズガ刺したり、それをことさら口にしたりはしない。特に、蛍火にはがっかりした。虫つかいの女というブキミな美しさ。どうしても『箕輪の春』を思い出してしまう。そうした悲しさ、一途な恋心と少女特有の冷酷。第一、狂気して何度も刺すのは暗殺者のトドメではないと思う。時間もかかるし、かえり血もあびるし。確実に、スタイリッシュに、静かに、迅速に。そして、こともなげに。それが蛍火のイメージなんだが。この蛍火は好きではないのだけれど、箕輪の春の「小女」が好きで、重ねて観てしまうと、健気さにホロリとさせられる。アニメにはそれがなく、映画にはイメージのみは、ほぼそのままだが、活躍がなく。残念なことだった。映画の弦之介は、画面に登場するたびに、どうにも「今までどこにいましたか」「このひとだれですか」と聞きたくなるほどだ。アニメは、映画ほど存在感は薄くないが。この2作品には「甲賀忍法帖」という題名はそぐわない。実際、映画には『甲賀忍法帖』というタイトルはつけられなかった。原作小説は、あきらかに表題どおり「甲賀」が主体で、伊賀がなんとなしに悪者と感じるしくみになっている。それだけに、朧の一筋の思慕が哀れだ。主人公である甲賀弦之介が、古いタイプの好青年であったために、現代のエンターテイメント的には地味すぎたのかもしれない。ただ、古いタイプの人間であるからこそ、ラストの開眼シーンが活きるように思うのだが。思いのほか長くなってしまった。本日これまで。