管理責任者遺棄死
麻薬のニュースが流れ、人間の弱さを考えさせられた。押尾容疑者の事件は、「保護責任者遺棄死」で調べられているという。死にそうな人を救急車も呼ばずに放置し、立ち去ったような場合の罪状らしい。「刑法 第二編 罪 第三十章 遺棄の罪」で定められているようだ。そのニュースの画面下部で、一行ニュースが流れていた。母親パチンコ中に 11か月男児 車内で死亡。以前にもありましたね。パチンコ中に車内にて、乳児熱中症で死亡。パチンコ中に車内にて、乳児一酸化炭素中毒死。パチンコに限らず、寝ているからかわいそうと思って、自宅ガレージ車内に放置した結果死んでしまった子供もいた。議員である親がお出かけする間、部屋に放置され死にかけた乳児もいた。どのケースも「放置」が問題である。最初の動機はともかく、こまめに見に行くという気づかいが無い結果だ。見通しの甘さも含めて、ひとは容易な道を選びがちである。人間は弱い。ちょっとくらい。このくらい。大丈夫?そういうズルズルした「放置」が、大変な事になってしまう。先日、大掃除をしていて、思った。「毎日、けっこう汚れるなぁ。行き届かないところには溜まっているな。」魂も同じだ。習慣的に掃除(祈り)をしているつもりでも、目の届かないところには、ゴミが溜まっている。定期的に大掃除(告解)したり、日々の掃除(祈り)の方法を見直したり、が必要だ。今日は、聖アウグスチヌス司教教会博士(記念日)である。アウグスチヌスは、独善的な母親から逃げ出して好きに暮らしたという印象がある。気ままな生活をする弱さ、気性や意思の激しさ、強さ。その基本性格が、今度は成聖の道へと全面的に活かされてゆく。激しさは神への徹底的な探究に役立った。ズルズルと「放置」せず、こまめに自分の生活を見直してゆけば、聖人ほどの「大回心」は起こらずとも、大きく踏み外してしまうこともないだろう。大聖人こそ、むしろ、日々の小さな積み重ねを続けている。忠実に日々の些事に従事してゆくことの、難しさ。やっているつもりでも、実際はいつの間にか手を抜いている。その手抜きが、いつの間にか取り返しのつかない状況に追い込む事もある。聖アウグスチヌスは、私にとってかなり「遠い」聖人である。よく、「今日の聖人に倣って、私たちも成聖の道を歩めるよう…」などと祈るが、心情的に遠い聖人の場合、どうもピンと来ない。ピンと来ない私を、捧げるしかないか?静かな水の流れのように 今日のすべてを 委ねます。以下は、聖アウグスチヌスについての教皇ベネディクト16世の、2008年1月と2月に行われた演説。(一)(二)三生涯と著作回心