カテゴリ:シチュエーション・アナリシス
若き日に巨人・田中角栄の薫陶を受け、自民党幹事長などとして「豪腕」と謳われた大物政治家も、寄る年波で今では野党・立憲民主党のせいぜいご意見番ぐらいのポジションに甘んじているが、やはりさすがに腐っても鯛だった。久しぶりに気炎を上げていると『夕刊フジ』が伝えている。
その内容に共感したので、全文引用する。 ・・・全体主義独裁国家に金は要らない。民主主義には金がかかる。自明の理であると私も思う。いわゆる「民主主義のコスト(費用)」である。 国民各位は「政治とカネ」の問題に対して、一時の感情に走らず、長い目で見て冷静に受け止めてもらいたいと、切に思っている。 〔以下、リンク・引用〕 □「頭がおかしいのではないか」小沢一郎議員の "正論" 岡田幹事長ら立民幹部を批判 「法案を出した時点でパーティーの開催はなしだ」 【岩田温氏「日本の選択」 夕刊フジ 6月4日配信】 久々に野党議員から正論を聞いた。文字通りの「正論」である。 まず、確認しておこう。 立憲民主党は政治資金パーティーを全面禁止するための法案を国会に提出した。それにも関わらず、岡田克也幹事長や大串博志選対委員長ら一部の幹部が、政治資金パーティーの開催を予定していたことが発覚した。 意味不明な選択である。国民が怒りの声をあげると、突如、自分たちのパーティーの自粛を決め込んだ。「朝令暮改」とは、このことを言う。 筋違いで、場あたり的行動を繰り返す党のあり方に異を唱えたのが、立憲民主党の小沢一郎衆院議員である。彼の発言こそが正論であった。小沢氏は政治資金パーティーの存在を否定しない。政治には金がかかることを彼は熟知しているからである。 地元に事務所を構え、私設秘書を置く。選挙のためでもあるが、有権者の声を聞くためでもある。地域の人々の声を聞かずして、何のための政治家なのか。 不正で不透明な金のあり方には異を唱えるが、「政治と金」の問題をすべて問題視はしない。金のかからない政治を求めるならば、民主主義は不要だからだ。 考えてみれば、全体主義に金はかからない。地域の人々の声など無視すればよいからだ。陳情も訴えもすべて不要。住民の意向など一顧だにしない。それが全体主義だ。為政者は権力を行使し、人々はそれに従うだけでよい。 民主主義社会では、誰もが過ちを犯し、正す必要がある。誤りのない人など存在しない。その「可謬性(かびゅうせい)の哲学」こそが保守主義だ。 小沢氏が否定するのは、意味不明な理屈に終始する政治家たちである。彼は言う。 「信じられない。頭がおかしいのではないか。法案を出したのだから、その時点で(立憲民主党の政治資金パーティーの開催は)なしなのだ」 誰がどう聞いてみても正論である。さらに、小沢氏は続ける。 「世間から見れば、『パーティー禁止の法案を出したのに、党執行部が先頭に立って(パーティーを)開催するとは、どういうことか』となり、信じられない。法案が成立するまでパーティーをやるということは、『警察が来るまで、盗人をやれ』みたいな話ではないか」 信なくば立たず。国民から、疑われるような行為は厳に慎むべきであろう。盗人猛々(たけだけ)しいような政治の世界を、一般国民は蛇蝎(だかつ)の如く嫌悪している。 政治家は信用できない。噓しかつかないからだ。しかし、これでは馬鹿げている。国が亡びる。 私が本当に愛するのは現実だ。現実を跳び越えた野望に意味はない。政治家は国民の信用を取り戻すべく尽力せよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年06月07日 01時37分31秒
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