カテゴリ:古今憧憬
大江千里(おおえのちさと)
月見れば千々にものこそかなしけれ わが身ひとつの秋にはあらねど 古今和歌集 193 / 小倉百人一首 23 あの月を見ていると 限りなく思いが溢れてきてたまらなく切ないんだ。 私ひとりのために来た秋ではないのだけれど。 註 平安朝の知識人・学者だった大江千里の、やや理屈っぽくて洗練された持ち味がよく出ている秀歌。 月を見て一献傾けて、さまざまな物思いに耽ってうるうるしている自分のセンチメンタルな主観を、もう一人の冷静で客観的な自分が批評して(茶化して、 あるいは照れて)いるような歌。 ・・・「ひとりボケとツッコミ」みたいな(?) また、言外に「わが身ひとつの秋である」と言っているも同然とも解される、一種の恍惚・多幸感・エクスタシー。 月は古来、なぜか知らねどこういった感覚を僕たちにもたらすのである。 こういった、明らかに読み取れる(頭の中で作った)観念性は、日本の伝統的な詩歌では概して好まれず、けなす人はぼろくそにけなす。明治期の巨人・正岡子規はその筆頭である。俳句の方では、完全にアウトである。 子規子は、ひと言で言えば「和歌」を「短歌」に革(か)えた人である。写生・写実(リアリズム)を短歌表現に導入した。 その影響は深く現代に及んでおり、不詳わたくしめもその主張を基本的には正しいと思っている一人である。 だが、今の目で見ると、この一首の軽やかな観念性・論理性は、360度転回して、嫌味ではなく、むしろ近代的な感性の秀歌と評していいのではないだろうか。 「こそ・・・けれ」は、強調の係り結び。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年09月17日 05時20分06秒
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