中山競馬場で歴史に残る名勝負が行われた日!!
昭和44年のAJC杯(2500メートル・別定)・良馬場は一月遅れの昭和43年日本一決定戦 暮の有馬記念が酷い不良馬場で、重上手のリュウズキ、ニウオンワードが1,2着。年明けのこのAJC には、1,2着のほか 有馬で不良馬場に泣いた馬たちも出走して来て、真の昭和43年日本一決定戦 の様相を呈した。逃げたのが、悲運の名馬モンタサン で、そのモンタサンが三角でズルズル後退《実は油木騎手の策戦だった》。スピードシンボリはすでに好位に上がってきており、菊花賞馬アサカオーはまだ最後方。直線の勝負となったこのレース 。先ず先頭に立ったのはスピードシンボリだった。そこに一旦下がったモンタサンが内からグイグイ差し返してきた 。モンタサンがシンボリを交わして先頭に一旦は立ったが、外を突いて追い込んできたアサカオーが内の二頭を差し切ってゴールに飛び込んだ。油木騎手が最高のレースをして負けたモンタサン、悲運の名馬といわれる由縁だろう。スピードシンボリも良馬場なら、この後有馬記念二年連続優勝する実力を見せた。こんな強豪たちを外から豪快に追い込んだアサカオーは、菊花賞馬の実力を発揮してくれた。三頭が並んでのゴール前の争いは間違いなく名勝負だった。菊花賞馬が一番強いを証明したアサカオー。ヒンドスタン産駒が優勝といい時代だった