2013年は大変だった
2013年。。。実は、大変だった。離れて暮らす独り暮らし&独身の叔母(母の妹71歳)が、ちょうど母が帰省中の4月に風邪をひいていたようで、「心臓も強い方じゃないんだし、大きい病院へ行こう」と、連れて行き、その場で入院が決まり、母が「入院に必要なものを買ってくる」というと、何かあったときに人に預けられるだけのお金が入った通帳を渡し、そのまま母が病室を出て…それがまともな叔母と母の最期の会話だった。叔母は心停止をし、生死をさまよった。その後、院内で倒れたこともあり、一命は取り留めたが、脳に血流が回らなかった時間が長かったために、脳の中枢部がやられ、親族は姉である母、そして姪である私しかいなかったから、東京に連れてきて一緒に暮らし始めた。しかし、1分前の記憶も持たない。また、妄想が出てしまう。妄想で話をしたり、すぐのお手洗いの場所も覚えられない。何か妄想に取りつかれて、「○○さんに会いに行ってお金を払わないと」となり、いつの間にか徘徊になり、警察にもお世話になった。私は昔のままのカジュアルさで教室をしている。後半はレッスン中に間違えて入ってきてしまったり、動けるのは良いのだが、全く記憶がないので、困っていた。そして、妄想がひどくなり、年末に私の判断で(母も年老いて来ているため、とても日常の世話は一生懸命だが、肝心なところで決断は出来ない)、入院となった。認知症もあるが、統合失調もあった。統合失調の気配が見えたのはいつ頃だったろうと、久々にこのブログを見た。どうも2007年だ。よって、精神科への入院だ。認知症テストは最初から0点。重度である。今の季節も時間もわからない。どこかもわからない。かろうじて、私や母のことはわかる。でも、妄想から、「○○をしなくては」「○○さんに会いにいかなくては」ということで、点滴をしても理解が出来なくなっているため、点滴を外したりするから、拘束されている。昼間は頑丈な車椅子に、コルセットのような太いゴムベルトで押さえられている。認知症の人には脳外科ではあまり精神科の薬は使いたがらない。脳がダメになるスピードも速くなるもしれないから。でも、もう寿命が縮まってもいいから、少しでも数カ月前のように、少しはまともな会話もしたいし(数か月前はそうだった)、人間らしくいて欲しいから、精神科での入院をし、合う薬を模索中だ。でも、それも終わってないうちに『転院』の話になっている。もしくは、『施設』だ。妄想がひどいときは、私もつられて、パニック発作が出まくった。でも、ウチに来たばかりの時は、トンチンカンでもあったが、一緒に色々なところに行き、お風呂も一緒に入れてあげたりした。それが…。私の悲しみのコップはたまにいっぱいになる。そんなときは以前と同じように勿論具合も悪くなる。私のパニック障害について、一番早く理解をし、助けてくれた叔母。シッカリ者の叔母。手芸から始まり、大工仕事まで何でも手先が器用だった叔母。その叔母が壊れて行くところを、見守って行くだけ…好きでなったのではない。でも、人生は本当にわからない。若くてもこうなることもある。同世代が、家族の『成長』を見守り大変な中、独身一人っ子は『消えゆきそうな命』を見守る責任がある。きっと、どっちも同じくらい大変だと思う。やっぱり、人生はわからない。それでも私は生きている。★★★日記を書き始めたときは、病気で焦りも多く、また自分が不幸に感じることも多かった。でも、今は、素直にハッピーな話を聞くと私まで嬉しくなる。そして、教室の主宰として、相変わらず誰の手も借りていないから、当時からの担当医いわく、「ずいぶん成長し、いつの間にか『責任』というものにも耐性がついてきている」と。一応、叔母の件等、急激なことが起こると一旦体調はおかしくはなる。が、生徒さんは来るし、「資格」を扱う教室にまで地道にやってきたから、孤独にも責任を持ち、また、困難にあたったときに、乗り越えるべき部分、潰していかなければならない部分の優先順位をいつの間にか付けれるようになっているようだ。ただ、人間は本当にもろく切ない。命があること、そして『好きなことを出来る時間』は限られていると改めて感じている。叔母よ、私はあなたを中途半端にしか守れない。でも、あなたの生き方は素晴らしかった。あなたが忘れても、私は忘れない。