テーマ:北朝鮮拉致問題(18)
カテゴリ:映画
親子が会えることが奇跡になってはいけない。 1977年11月15日夕刻、新潟。 学校のバドミントン部の練習の帰り道で一人の少女が忽然と姿を消した。 横田めぐみ(以下敬称略)13歳である。 拉致工作員の手によって船底に閉じ込められためぐみは助けを求めて泣き叫び、壁をかきむしり爪をはがしてしまう。 北朝鮮に着いてからは「朝鮮語を覚えたら日本に帰してやる」と言う工作員の言葉を信じ、ひたすら勉強に励んだ。 然し彼女が18歳になった時、その約束が嘘であったことが分かる。 日本に帰してもらえないことを知った彼女は遂に精神に破綻を来たしてしまう。 1970年代の同じ頃、日本各地で行方不明事件が多発していた。 工作員のリーダー、シンガンシュンは暴力的に、時には甘言を弄し、日本の若者を騙し北朝鮮に拉致していた。 「スパイを防止する法律のない日本は、俺たちにとって楽な仕事場さ」と笑う工作員たち。 日本ではめぐみの両親とその支援者たちの必死の署名活動が続く。 ■1970年代から80年代にかけて(70年代が中心)■ 多くの日本人が不自然な形でいなくなりました。 日本の警察による捜査や、亡命した元北朝鮮工作員の証言により、これらの事件の多くは北朝鮮による拉致(本人が望まないのに連れ去ること)の疑いが濃厚であることが判明しました。 そこで日本政府は、1991年(平成3年)以降、機会があるごとに北朝鮮に対して拉致問題を提起し続けたものの、北朝鮮は頑なに否定してきました。 その間には、これまで孤独に戦い続けてきた拉致被害者の御家族が団結し、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)」が結成され(写真)、国内でも拉致被害者の御家族への支援や被害者救出を求める運動が活発に展開されるなどの気運の高まりがありました。 そしてようやく2002年(平成14年)9月に、北朝鮮の指導者・金正日(キム・ジョンイル)国防委員長(当時)が、小泉純一郎総理大臣(当時)との会談において、初めて日本人拉致を認め謝罪しました。 その理由について金正日国防委員長は、 (1)北朝鮮のスパイに日本語を教えるため (2)北朝鮮のスパイが日本人に成りすますため と説明しています。 2002年(平成14年)10月に、拉致被害者5名の20数年ぶりとなる祖国・日本への帰国が実現しました。 横田めぐみさんと両親は、拉致被害者のシンボルとして、度々テレビなどに登場するが、これ以外にも多くの 被害者がいる。 日本政府認定だけで、17名。 その他、日本人だけでも数百名が拉致被害者だという。 小さな船の中の倉庫に閉じ込められためぐみさんは、 手の指の爪がとれそうになるほど、もがいた姿が、彼女の恐怖ををえがいていた。 この映画は、市のホールで行われ、多くの人が見た。 しかし、車に乗らない人にとって、ここは不便なところ。 駅の近くや、他の市の建物を利用するなどして、複数回上映したらいいと思う。 この映画は、クラウドファンディングで作られている。 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.12.06 00:04:20
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