「~~代表」として見られることの気持ち悪さ
私は、自分のことに関してネット上では意図的に隠してきたことがいくつかある。それは、本名や本人を特定できるような個人情報などというわかりやすいことに限らない。察しの良い人などは気付いたりするのだけどそれは、食生活に関することだったり宗教生活に関することだったり政治思想に関することだったりする。隠してきた理由にはいくつかあるが、一番大きな理由は~~代表にされるのが嫌だからだ。韓国にいたときに日本の大学に通う在日コリアンの子がいた。アメリカの大学に通うあるリベラル思考の日本人の子はその在日コリアンの子の名を「韓国風」に読み、その子が「いや、苗字は韓国読みでも、名前は日本読みでそれがオレの名前だから」と言っても、しつこく下の名前も「韓国読み」で呼んだ。その同じリベラル思考の子は、私がユダヤ教徒だと知ると私に中東問題のことに関して議論を吹っかけてきた。それは、私個人の考えを知るためというよりは私を「ユダヤ人代表」として話を進めるためだった。私がいくら自分はユダヤ人代表でありえないし多くの典型的なアメリカのユダヤ人は、現地在住のイスラエル人やユダヤ人とはかなり異なった意見を持っている。私は、とてもじゃないが、そのみんなの意見を代弁できるほどの知識を持ち合わせていないと言っても聞く耳を持たなかった。ある意味、「リベラル」あるいは「左翼的」な人に典型的な「正しい答えはひとつしかない」的態度だ。その思考パターンはこうだろう。在日コリアンであるならば、正しい名前の読み方はひとつ。それは、(現代)韓国風の読み方。ユダヤ人であるならば、中東問題に関する考え方はひとつ。それは、何を置いてもイスラエル擁護の考え方。正しくは、本人の名前の読み方は、民族的アイデンティティがどうであれ、本人が決めるべきことだ。特に、当時の朝鮮人に創氏改名を強要した日本人の子孫がまたその朝鮮人の子孫である在日コリアンに「正しい名前の呼び方」を強要する図は皮肉以外のなにものでもない。そして、中東紛争に関して言えば、中東内でもイスラエル内でもいろんな国のユダヤ人内でもさまざまな考えが混在する。多様すぎてとてもじゃないがその道の専門家でもない私にはそれを上手く一言で言い表すことはできない。政治家や社会運動家にでもなれば民主主義国家では他の人の意見を代弁することが大切になるから自分の意見を述べるときに代表者として意見を言うことも大切になるだろう。でも、私は政治家でも社会運動家でもない。時には他の人の考えを代弁することもあるけれど、そうするときは選ばせてほしい。そして、それを自動的に私のアイデンティティにつなげてほしくない。・・・・と言っても無理なのはわかっているのだけど。私の言うことをいちいち「代表」の声として、箱にはめて理解する人はそうするしそうしない人は、すでにそうしない。そして、私も人が「代表」として声をあげているときとそうでないときをちゃんと区別するようにしているがたまに失敗することもある。なかなか難しいことではあると思う。けど、やってみようとする価値はあると思う。