清算の日・・・サダム・フセイン
こんな年も押し迫った今日、世界中をサダム・フセイン死刑のニュースが駆け巡った。もちろん、日本でも報道されたと思うけど、ここアメリカでももちろん,朝から晩までこのニュースだった。私が見たCBS(アメリカのテレビ局)のニュースでは、サダム・フセインが覆面の男たちに連れてこられて、まさに首に縄をかけられるところまで放映された。もちろん、実際にはその後(処刑後)まで録画されているらしい。しかも、テレビ以外でも活字として、サダム・フセインとの最後までの会話や、周囲の反応・対応まで細かく報道されている。それは、これがアメリカだからだろうか?「敵」が処刑されたことで、今までの介入を肯定しようというのだろうか?ところで、州によって法律の異なるアメリカでは、特に極刑を課さない州で、「刑加算法」がとられている。従って、量刑に応じて例えば300年禁固なんてこともありうるわけだ。つまり、いくら行儀がよくても、保釈になる可能性はない。しかも、最初から「保釈可能性なし」という場合もある。本当の意味での、終身刑だ。あっさり極刑に処してしまえば、苦しみは瞬時と言われる。さて、どちらが「重い刑」なのだろう・・・サダム・フセインの処刑に関しては、いろいろな国がコメントしている。賛成・反対さまざまだ。中でも、中国政府の「イラクのことはイラクが決める」、というのにはいささか笑わせてもらったが(アメリカに対する皮肉と、あんたが言うか?ってことで)、やはりこの早期の処刑は多少予想外だったようにも思える。世界中がこの処刑に揺れる中、あるイラク男性のインタビューが私の注意を引いた。彼はバグダッドに住む、ただの一市民。その彼は言う。「サダム・フセインはいなくなったけど、我々の日常が一体どう変わるというのだろう?」パレスチナ問題もある。宗派のいさかいも絶えない。だからこそ、イラク政府は「この日」を早く迎える必要があったのかもしれない、となんとなく思った。民主化の「壁」を取り除くためにも。過去を浄化するためにも。世界の多くの国で、日々施行されている「極刑」。しかしながら、人が人を裁く(処刑する)ことの矛盾。やはり、極刑は必要なのだろうか・・・・・