★7日間連続ブックカバー・チャレンジ!(上)/5月9日
コロナ・ステイホーム期間のヒマつぶしに楽しんでもらおうという目的なのか、facebook上ではいま「****チャレンジ」「****リレー」とかいう名前で、好きな本やCDアルバム、映画などを紹介して、次の方へリレーしていく企画が盛んです。私にも「7日間連続ブックカバー・チャレンジ!」というバトンが回ってきたので、挑戦してみました。7日間一生懸命書いたので、せっかくなのでこのWEBページでも3回に分けて紹介したいと思います(以前書いたことが内容と若干だぶっているかもしれませんが、何卒ご容赦を!)。60年余の人生を振り返りながら、私にとって忘れられない本を、毎日1冊ずつ選びたい。1冊目は、切り絵作家だった故・成田一徹さんが初めて手掛けた本、『酒場の絵本』(1982年刊、自費出版)を紹介する。80年代半ばまで存在した港町・神戸のいわゆる”外人バー”を約20軒、切り絵と文章で紹介した、大人のための絵本。一徹さんが切り絵をつくり、当時職場の友人だったTさんが文章を担当したという形での共著である。新聞記者だった私は、1982年春、初任地の金沢から転勤で神戸にやってきた(2か所目は京都への転勤を望んでいたが叶わなかった)。神戸支局では、神戸港関係の事象(事件、事故、話題など)をすべてカバーするいわゆる「海回り」記者を命じられた。一徹さんは当時、神戸港振興協会という神戸市の外郭団体で働く準公務員でマスコミの対応にもあたっていた。振興協会は神戸港に出入りするヒトや物の動きを把握している出先機関で、ポートタワーのすぐそばに事務所があった。週に2~3度事務所に出入りするうち、バーという共通の趣味もあって、私は5歳年上の一徹さんとすぐに意気投合した。そして、彼から「友人と一緒にこんな本をつくったんですよ」と教えられた。その絵本の各ページには、私が見たことも行ったこともない、異国情緒あふれる魅力的な酒場空間が広がっていた。そして彼は、私の求めに応じて、この絵本に登場する”外人バー”に1軒、1軒連れて行ってくれた。当時は「日本人お断り」のバーもあったが、一徹さんのように神戸港関係の仕事をしている人間は例外的に(連れの人間も含めて)入店できたので、私もその恩恵にあずかった。元々バー好きだった私だが、一徹さんやこの『酒場の絵本』と出会ったことで、さらにバーにのめり込むことになった。そうした出会いがなければ、バー・オーナーとしての現在は、絶対になかった。人生とか、人との出会いはある意味、「偶然という名の運命」のようなものだが、私はいま、この運命につくづく感謝している。 * * * * * * * * * 2冊目は、小学生時代にタイムスリップして、手塚治虫の名作『白いパイロット』(鈴木出版、1962~63年)。小学校の低・中学年の頃、「大きくなったら何になりたいか?」と聞かれたら、迷わず「漫画家」と答えていた。そして、私のアイドルは何と言っても「漫画の神様」手塚治虫だった。「鉄腕アトム」が連載されていた月刊誌「少年」は毎月、発売日がとても待ち遠しかった。近所の貸本屋に手塚の全集があったので、数冊ずつ借りて作品を読みまくった。後年、その貸本屋が廃業する際、その貴重な全集のうち十数冊を譲り受けたが、今も大切に持っている(近い将来、宝塚の手塚治虫記念館に寄贈するつもりだ)。当時、同じく漫画を描くのが好きな友人と机を並べ、ペン軸にGペンや丸ペン、烏口(からすぐち)、黒インク、墨汁、ポスターカラーのホワイト、スクリーントーン、羽根ぼうきなどの道具を揃え、ケント紙に描きまくった。しかし数年後、「自分には漫画家の才能はない」と痛感した。とくに、ただ絵が上手いだけではダメで、何よりも友人にはあった「ストーリー・テラーの才能(物語を創作する力)」がないと、とてもプロにはなれないと思い知った。「好きこそ物の上手なれ」とも言うが、やはり、人間には得手不得手、向き不向きがあると思う。自分には、漫画家は「見果てぬ夢」だった。小学校高学年になると、興味は音楽や楽器(ギター)に変わっていったが、今でも手塚漫画は大好きだ。ヒューマニズムに裏打ちされた物語は、限りなく魅力的で、色あせない。学部は違うが、同じ大学の後輩であることがとても誇らしく思う。手塚漫画で「とくにオススメは何?」とたまに尋ねられる。たくさんあって迷うけれど、3つ選ぶなら、「ブラック・ジャック」「きりひと讃歌」、そしてこの初期の作品「白いパイロット」かな。8人の少年少女たちのSF冒険譚だが、心ときめかせてページをめくった記憶は、今も鮮明だ。皆さまも機会があれば、ぜひお読みください(今なら、講談社の手塚全集で読めます)。 * * * * * * * * * 3冊目は、多感な中学生時代、その3年生の時に愛読した『ガロアの生涯 神々の愛(め)でし人』(L・インフェルト著、日本評論社、1969年刊)。20歳の若さで亡くなったフランスの数学者エヴァリスト・ガロア(Evariste Galois 1811~1832)の伝記である。文系アタマで理系科目はあまり得意ではなかったけれど、意外かもしれないが、数学は比較的好きだった(他に生物も)。好きになった理由の一つには、中学3年の担任が数学のM先生だったということも大きい。このM先生、通常の数学教科書に基づく授業以外に、(必ずしも教える必要がなかったと思われるのに)ときどき数学発展の歴史とか、ニュートンやライプニッツ、ガウス、フェルマーら歴史上の数学者の生涯や業績をわかりやすく解説してくれた。その中でも、僕が一番興味をそそられた人物がガロアだった。ガロアは、一般的にはさほど有名な歴史上の人物ではない。しかし数学史上では、「5次以上の方程式には一般的な代数的解の公式はない」という定理の証明を大幅に簡略化したことやガロア理論(私にはちんぷんかんぷんで全く理解不能だが…)で、今も歴史に残る偉大な数学者の一人に数えられている。しかし、私が興味を持ったのはガロアのその数学的業績ではなく、彼の共和主義者、革命運動家というもう一つの顔だった。ガロアが生きた時代のフランスは、ナポレオンによる第一帝政が1814年に終焉し、その後の王政復古期(1814~30)から7月革命(1830年)、7月王政(1830~48)という激動の時期。師範学校等での数学研究のかたわら、ガロアは共和主義に傾倒し、王政打倒を目指す革命運動に身を投じていく。そして、その過程で何度も秘密警察に逮捕され、獄中生活も経験している(なんと獄中でも、数学研究のメモを書き残している)。だが、伝えられるガロアの最期は獄中死ではない。「友人と恋人を争って決闘して、その怪我が原因で死んだ」という世俗的かつドラマチックなものだった。もちろん単純な決闘死ではなく、政治的な謀殺であるとの説もあるが、今となっては真相は謎のままだ。この本が出た1969年の日本は、70年安保改定反対運動もあって、日本じゅうで学生運動が激化していた時期。私も、政治的問題にはとても関心を持っていた中3の生徒だった。数学者という純粋な科学者でありながら、革命運動にも身を投じたガロアの不思議で、数奇な生涯に魅せられたのは、必然だったのかもしれない。この伝記では、決闘に倒れ、病院のベッドで亡くなる前、弟につぶやいたガロアの言葉が伝わっている。「泣かないでくれ、20歳で死ぬには、ありったけの勇気が要るのだから」(Ne pleure pas, j'ai besoin de tout mon courage pour mourir à vingt ans!)。たった20年の人生で、歴史に名を残したガロア。彼の伝記を読んだ私は、「自分は歴史に何かを残そうとは思わないが、せめてガロアに恥じないように、自らの信念は裏切らないよう生きたい」と強く感じたことを覚えている。そして、その後半世紀の歳月。私は、ガロアに恥じないような生き方ができているか、いまなお時々自問している。【おことわり】申し訳ありませんが、私は誰にもバトンタッチはいたしませんでした。連休中は皆さんいろいろ忙しくて、個々に様々な事情もあるでしょうし、バトンを渡されても迷惑に感じる人もいるでしょうから…。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】