2007年4月~6月
「4月」4月はとても辛い月になりました。私は会社で経理をしています。年度末→年度初は年間で一番忙しい時です。かなちゃんがいない悲しみをその忙しさに紛らわして働いていました。しかも、経理・総務という部署には、出産報告やお祝い金の支給などの書類が次から次へとまわってきます。自分の子供はいなくなってしまったのに、何故他の人のお祝いの処理?と思ったりもしてしまいました。辛さに輪をかけたのが、3月に受けた輸血後の検査結果・・病院からは2週間位で結果と紹介状を合わせて郵送しますと言われていました。でも待っても待っても届かず、3週間ちょっと経った頃は、少し遅れているのかな程度にしか思っていなかったのですが、1ヶ月が経ち、だんだん自分が何かに感染していたんだろうと思いはじめました。それからはガタガタでした。検査結果に怯え、毎日毎日眠れず、頭痛・胃痛・歯痛に悩まされ、感染しているから病院内で色々話し合いがされて、輸血してエイズに感染というニュースが流れるんじゃないかと本気で思っていました。そしてかなちゃんの所に行く事も何度も何度も考えました。もし助かった命を粗末にしたら決してかなちゃんのいる場所へは行けないのに、それでもこの時の現実から逃れたくて仕方がなかったです。悩んで悩んで感染しているならば、誰にも何も告げずにいなくなろう、私の事を誰も知らない土地に体一つで行こうと思いました。そう考えて私は、少しずつ本当にそうする為に僅かな貯金を一つの口座にまとめたり、気づかれないように準備もし始めていました。鬱になり、どうしようもなくなった時期でした。どうにかこうにか助産師さんにメールをしてみると、ビックリされたようですぐに電話がありましたが、どうしても出る事が出来ませんでした。その日の夕方、先生から謝罪の電話が入りました。その電話にも出れませんでした。先生は、結果は異常がなかった事、紹介状がなかなか書けずに結果も遅くなってしまったとの事でした。結局結果が分かるまで検査から5週間の時間が過ぎていました。病院側にとっては、私は過ぎた患者であり、日々忙しく患者を診て、緊急オペなども入るでしょうからそれだけが仕事だと思われていたんだととても悲しくなりました。かなちゃんが産まれた病院は私が産まれた病院であり、りなちゃんが産まれた病院であり、そんな思い入れのある病院でかなちゃんが産まれて、先生・助産師さん初めスタッフの方はみんなかなちゃんを新生児と変わらない扱いをしてくれて、かわいくてきれいな赤ちゃんだねって抱かせてくれたり、足型や写真をとってくれてたりして私は本当に感謝していました。でもその信頼していた病院から受けた最後の対応はあまりにもひどい対応でした。自分が輸血を受けた後の検査は不安にならないのだろうか、私だけがそう思うのだろうか、欝になって自分がおかしいのかどうかも分からなくなったりしていました。結局検査結果と紹介状は別々に郵送で届きました。結果には検査後1週間位で検査機関から病院に通知が来ている事になっていて愕然としました。それなら何故その時に結果だけを送って、紹介状はもう少し待って欲しいという対応をしてくれなかったのだろうかと悔しくてたまりません。「5月」ゴールデンウイークが来て、世の中が連休中でも私は立ち止まったまま進めていませんでした。実家からも遊びに来たら?と誘われましたが、行く事によってまた辛い事が思い出されたり、親戚に会わなければいけなかったりがどうしても受け入れられそうになくて断りました。りなちゃんはこどもの日の男の子の節句があったのですが、主人の実家や主人の妹家族に一緒にどう?って誘われましたが、私はかなちゃんがいなくなったのに、お祝いなんてと思ってどうしても出来ず、断りました。りなちゃんにはかわいそうでしたが、今年はこいのぼりも五月人形も飾らず普段と変わらない日を過ごしました。主人の親戚に今年結婚する方がいるのですが、結婚する人のお兄さんの所にかなちゃんとほぼ同時期に産まれた男の子がいるので私は出席できないだろうなぁと思います。その事は主人の両親にも伝えました。かなちゃんと同時期に産まれた男の子の話をしている主人の両親を見ているのも辛かったです。私は不育症の検査を受けに大学病院を受診しました。初診は待ち時間が4時間、その後検査で9本血液を抜かれました。フラフラになっちゃいました。結果は・・抗リン脂質抗体症候群の数値が11でした。40以上の人が異常値と言われているが、専門医は10以上を弱陽性としていて、私は11。陽性と陰性という大きい分野で分けた場合は陽性になるとの事でした。血流が悪く、血液に血栓が出来てしまう。妊娠したらアスピリンを使用した方がいいのではないかと言われました。が、同時にアスピリンを使用すると出血しやすくなるとも言われ、私の場合は本当に弱陽性だし、微妙なんだよねって言われてしまいました。これが原因ならかなちゃんに発育遅延などがあっただろうし、ちゃんと37週で2770グラムと標準の大きさになっていたんだから赤ちゃん側にも多分異常はなかったと思うとの事。この結果を聞いて、かなちゃんはやっぱり私の体が原因で苦しめて、助けてあげられなかったんだと改めて思い直し、自分を責めました。でも次の妊娠の為に抗体のなかった風疹の予防接種を受ける事が出来ました。「6月」私はかなちゃんを失った悲しみがあまりにも強くて、傍にいてくれるりなちゃんをちゃんと見ていなかった事に気づきました。今頃気づいても遅いのかもしれませんが、家では完璧に出来るのに、保育園ではパンツにおしっこやウンチをしてしまう事が増えてしまいました。4月になってクラスも先生も変わって、1ヶ月が経ち、ようやく慣れたと思ったら、1ヶ月で担任の先生が辞めてしまったりという事も少しはあったのかもしれませんが、一番の原因は私だろうとはっきり分かりました。自分のバランスがとれずに必要以上にりなちゃんを怒ったり、外で赤ちゃんを見かけては辛くなって、りなちゃんはまだ外で遊んでいたいのに、逃げるように連れて帰ったりしていたら、おしっこの失敗が増えてしまいました。子供ながらに私の事をちゃんと見て感じ取り、沢山我慢させていたのでしょう。先生に時間を見て声をかけてもらったり、休日には公園に行ったり、電車に乗せたりしているうちに次第になくなりました。6月の月命日はかなちゃんと一緒に行って以来近づけなかったディズニーランドに家族で行ってきました。かなちゃんがお腹にいた時、ディズニー大好きな私は、年パスを持ってりなちゃんと何度も通っていました。昔から大好きだったのに、かなちゃんがいなくなってからは近づく事が出来ませんでした。かなちゃんとの思い出の場所、そして赤ちゃん連れの家族が沢山いるだろうなと思うと足が向かなかったのですが、6回目の命日にかなちゃんと一緒に行く事ができました。行く途中は雨が降っていたのに、ディズニーランドに着くと今までの雨は何だったのという位晴れて、その後は雨は1度も降りませんでした。パレードを見て、シャボン玉がお空に向かっていくのを見たり、花火を見たりしているとかなちゃんも喜んでいるなって思いました。帰りにプーさんの風船をお土産に買ってきました。2日間かなちゃんコーナーの前においてその後、りなちゃんと一緒にお空に飛ばしました。かなちゃんがお空で遊べるように☆☆☆