「哲学の思考法」の本質的な深化(3月20日)
最近、哲学の原理についてなんとなく新しい考えがまとまってきている(創発してきている)感覚があったのだけど、今日久々にブレイクスルーが起きた。 ここで詳しくは書けないが、なぜフッサール現象学がデリダ的な批判をはじめとして、独我論云々といった様々な誤解や批判を招いていたのか、その理由もより深く了解できるようになった。それは道具立て(用語)の問題もあるのだが、それ以上に、現象学のもつ根本的な「哲学的な方法的構え」の不徹底さに起因するものだったのだ。 僕の考えによれば、現象学が招いてきた多くの誤解や批判や混乱を根っこから解消し、デリダ派に代表されるような懐疑論者ですら、「絶えざる差延」(方法的相対化)という方法を禁じ手にして参加せざるをえないようなさらに開かれた言語ゲームへと深化させることができる。 言ってみればこれは、デカルトに対してその意義を最大限認めつつも、さらにその原理を徹底したフッサールと同じような原理的深展を、フッサール現象学やそれを継承している竹田青嗣現象学に対してもたらした、ということができるだろう。 久しぶりに心地よい知的興奮を味わった。とはいえ、これを形(論文)にするには相応の時間を確保しなければならない。いつになることやらわからないが、これはがんばって書いていかなきゃな。