発達勉強会を通して考えたこと(1):静的構造と動的構造という視座
先日は,無藤先生主催の発達心理学勉強会に参加してきた。「最新の知見をポイントを押さえていただいた上で,学ぶことができるので,お得である。しかもライブならではの愉しさもあるに違いない」と思ったから参加させていただくことにしたのである。僕は読書会に参加することはほとんどない。自分で読んだ方が速いと思うからだ。自分の関心に照らして,とばしたり,強弱をつけて読むことができるからだ。しかし,今回は別。最近は勉強(インプット)モードということもあったが,発達心理学の動向を長年の直接的経験とともに,著書を通して海外の最新の動向も押さえている無藤先生がトップダウンに概説してくださるということで,きっと本を一人で読むだけでは決して捉えることができない「+αの何か」を学ぶことができるだろうと踏んだのであった。結果,乳児研究の「全体的な動向」をつかむことができたので,参加して大正解であった。昨日は,ハンドブックの次の2つの章を解説していただいたのだが,前章(3章)は知覚や認知の発達についての章だった。Cohen.L.B.,& Cashon,C.H. (2003). Infant perception and cognition. In R.M.Lerner,M.A.Easterbrooks,& J.Mistry (Eds.), Handbook of psychology,vol.6:Developmental psychology(pp.65-89). John Wiley & Sons. Thonpson,R.A.,Easterbrooks,M.A.,& Padilla-Walker,L. (2003). Social and emotional development in infancy. In (pp.91-112). そこでは,乳児の視覚的偏向(乳児はどういういものを好んでみるのか),新奇性への偏向,馴化,色や形の知覚,知覚の一貫性, モノの永続性,カテゴリーなどの発達についてまとめられていた。その章は,冒頭で無藤先生がおっしゃったように,Information Processing (情報過程アプローチ?)の著名な研究者(Cohen)が書いているため,全体的にその枠組みに偏っていたようだが,それはそれで勉強になった。発達現象の理解という点でいえば,構造構成主義の立場は,Structure constructing という風にもいえるので,Information Processingに近いのかもしれない。そこで,構造構成主義をメタ理論としてではなく,個別理論として発達現象に当てはめて考えてみた。構造構成主義の観点から言い直せば,【子ども(ひと)は,現象を構造化しながら生きている】ということになる。これだけでは,情報処理論的な考え方を,構造構成主義的に言い換えただけで芸がないので,ここではもう一歩踏み込んで,【静的構造】と【動的構造】という二つを区分して発達現象を捉えてみたい。たとえば,顔の知覚は,顔全体から,顔のパーツの知覚へと発達は進むらしいが,これは「口ー鼻ー目ー髪」といったように「顔」という構造を,より細部の構造へと分節していっているということになる。これは現象の「静的な構造化」ということができる。ここでいう「静的な構造」とは「“これ”は“あれ”の隣にある」というように,時間を含まない構造を指す。これを一般的に書けば「AーB」となる。また,「動的な構造」とは,「こうすれば→こうなる」ということであり,「時間を含んだ構造」といってもよい。一般的に書けば「A→B」となる。つまり,「こういうモノを,こうすれば,こうなる」ということは,現象を「動的に構造化」しているといえる。たとえば,Cohen(著者)らは,4,8,10ヶ月の乳児をテストして,少なくとも10ヶ月にならないと,「solidity(固体性)」,すなわち,1つの固体が,他の固体を通り抜けないということを本当に理解できないということを明らかにした(p.76)。これは乳児がそうした現象を繰り返し経験するなかで,「固いモノは他の固いモノをすり抜けない」という,研究者等が「solidity(固体性)」と名付けた構造を構成したということを意味する。ちなみに,色の知覚のところで,乳児は2,3ヶ月で色を区別する能力を獲得し,その後4ヶ月になると,その能力にもとづいて色をカテゴリーとして捉えることができるという(p.73)このことは,色の識別(現象のおおまかな分節)の後,比較的すぐに,色をカテゴリー(同一性)として捉えることができるということである。つまり,構造構成主義的にいえば,現象を広義の構造として捉えた上で,その同一性(カテゴリー)を獲得するということになる。当たり前ではあるが,原理的思考によりくみ上げられた構造構成主義の理路と,実際の乳児の「構造構成過程」が似ていたので何となく,やっぱりそうだよなと思えたのはよかった。まあ,だからといって「データ」によって「メタ理論の理路」を基礎づけるというわけではない。「データ」は何らかの枠組みから切り取られたものであり,常に疑いうる。そうした根本仮説的性質をもつ「データ」によってくみ上げられた理論は,個別理論としてはまあ良いのだろうが,メタ理論としては「弱い理論」ということになる。そのデータが崩れたら,一緒に崩れることになるからだ。それはともかくとして,寡聞にして,時間を含む「動的な構造化」と,時間を含まない「静的な構造化」とを明確に区別して発達をとらえた書物を知らないのだが,こうした視座から発達現象を編み変えることによって,新たにみえてくる発達の側面があるかもしれない,なんて思った(そのような主張をしている人がいたら教えてください)。さて,このように,「モノの永続性」(モノがみえなくなってもそこにあり続けるという感覚)や「モノの固体性」(2つのモノは同じ位置を占めることができない)といった構造が構成されていない赤ちゃんにいくら「手品」をみせても意味がない(驚かない)。手品が通用する(つまり驚く)ためには,「こうすれば,こうなる」「こういう場合にはこうなる」という基本的な外界の現象についての構造が構成されていなければならないのである。一度そうした動的構造が構成された後に,その構造に反するような現象がおこると(モノ同士がぶつからずにすりぬけたりすると),赤ちゃんは驚いてじっと見る。顔の構造を把握した後に,目や鼻や口といったパーツがばらばらに配置された顔の絵をみると,「なんだこれは」と新奇なモノとしてじっとみる。乳児研究では,赤ちゃんが新奇な現象の方をよりながくみるという特性を指標として,「この赤ちゃんはそうした構造を獲得している」,というように推測していくのである。そして,無藤先生は,発達心理学者は「今までの先行研究では,こうしたことが赤ちゃんがわかるのは3ヶ月といわれていたが,2ヶ月でもできることがわかった」などと,あたかもオリンピックのように競っているとおっしゃっていた。これは,最近の発達心理学の進歩のありようを一言で言い当てている卓見だと思う。ここ数十年,乳児研究は凄まじい発達を遂げた。それは,おおくの発達心理学者が「赤ちゃんは実は有能だったんだぞ」というゲームに参加し,それを実証的に示すために,より優れた実験枠組みを生み出したことにより,達成されてきたのであろう。さて,先ほど【子ども(ひと)は,現象を構造化しながら生きている】と( )付きで書いたように,これは子どもに限ったことではなく,我々も常に現象を構造化しながら生きているといえよう。そうしたことは普段はなかなか気づかないが,我々が手品に驚くということは,何らかの構造を前提に生活しているということの裏返しでもある。たとえば,「構成された動的構造」を利用するという意味では,甲野善紀氏などの古武術(の一部)を考えるとわかりやすいかもしれない。古武術の技は,「こうすれば,こうなる」「こういう場合には,こうなる」という相手が,これまでの経験から構成している構造を利用して,その構造の裏をかくことによって,認識の死角をついていると考えられる。1年ほどまえ,池田清彦先生の研究室で,甲野善紀先生の技を受けたことがあるが,何度やっても防げなかった。動きの速さというだけではない。どんなに構えていても,「防御しよう」という意識が働く以前に,やられているのである。だから,防げない。というより,防ぎようがないのである。「え?」「あれ?」「どうして?」そんな感じである。かつて達人と試合をした相手は,こんな風に,何が起きたかわからないまま,絶命したんだろうなと思う。なんだかおどろおどろしい話になってしまったようだが,しかし,こうしたことはふつうの人の人生と無関係というわけではない。たとえば,ギャンブル。僕はギャンブルはやらないし,カジノにも行ったことはないが,ルーレットなどは,プロのギャンブラーは,ぐるぐる回る装置(なんと呼ぶのか知らない)の上で,狙ったマスに玉を正確に入れることができるはずである。しかし,ふつうのひとは,そんなことできるとは思っていないため,文句を言わない。自分の中で構成された「事象のランダム性」とでもいうべき概念(構造)にとらわれ,「狙って入れれるはずがない」という前提に立っているため,その結果は,偶然の産物だと思い込んでいるためである。だから,たとえルーレットで自分が大損しても「いかさまだ!」とか文句を言ったりはせず,それは,あくまでも偶然の結果であり,自分はたまたまついてなかったのだ,ということになる。しかし,プロのギャンブラーは「勝つべくして勝っている」。勝負の世界では,「勝つべくして勝てない人」を「素人」と呼び,「勝つべくして勝てる人」を「プロ」と呼ぶといっても過言ではないだろう。勝てるべくして勝てなければ,それで生計を立てることはできないのだから当然のことである。勝つべくして勝つすべを持たないひとは「プロ」としては生きていけないから遠からず「プロ」ではなくなるだろう。多分,カジノとかでルーレットやカードゲームで勝っているときは,「勝たされている」のである。そして調子に乗って,大金をかけたその瞬間に,全部もってかれるのである。そして,「ああ,なんて運が悪いんだ。いや欲を出した自分が悪いんだ」といって自分を責めることになる。当人は気づいていないが,「欲を出す」ように,相手にコントロールされているのだから,その点では自分を責める必要はないと思う。中途半端に素人が首をつっこんで勝てるわけがないのである。プロのピッチャー相手に,素人がバッターボックスに立って,いくらバットをふっても絶対にヒットをうつことはできないのと同じぐらいの確率で,勝てるわけがないのである。だから,反省するとしたら,「事象のランダム性」という構造を利用されていることに気づかず,素人がプロに挑んだこと,それ自体ということになろう。ここから,基本的に大金をかけるようなギャンブルはやらないに限る,という結論が導かれる。だから僕はギャンブルはやらないのである。ちなみに,僕は痛い目にあったから,そう思ったのではない。高校生の頃,たまたまテニスのトスの必勝法をみつけたことがあるのだが,僕ですらこのぐらいできたのだから,プロならそのぐらいのことはできて当然だろうと思ったのである。またギャブルとかやったら熱くなる性格だから,きっと向かないだろうなということもある。そういう「動的構造」を見いだした(構成した)のである。このように,構造構成主義の視座からいえば,人間は経験を通して静的な構造や,動的な構造を構成し,よくいえばそれを利用しながら,わるくいえばそれに囚われながら,生きているということができる。