神の声・・・
録画しておいた遠藤周作(原作) マーティン・スコセッシ(監督)の「沈黙ーサイレンスー」という映画を見た。あらすじ日本に布教に行き消息不明となった師フェレイラ神父からの最後の手紙で酷い宗教弾圧を知った若き神父ロドリゴとガルペは、棄教したと噂される彼の救済と布教のため、マカオで出会った切支丹(日本人信徒)キチジローと共に日本に密入国する。辿り着いたトモギ村では切支丹のイチゾウとモキチら信徒に匿われ、教義に対する意識の違いに戸惑いつつも司祭の務めを果たし、周囲の村にも切支丹が多く存在し赤貧に喘ぎ弾圧に怯える現実を知る。やがて村は奉行井上筑後守により陥落、モキチはロドリゴに自作の小さな十字架を託し、イチゾウと共に水刑に散る。2人は分れて逃亡するも、ロドリゴは壊滅した五島でキチジローに密告され奉行所内の牢小屋で囚われの身となる。神父殺害は逆効果だと知る井上奉行は、ロドリゴに通辞をつけ軟禁、彼の目前でガルペや切支丹らを殺害し棄教を迫る。キチジローは再々現れては告悔と裏切りを繰り返す。井上奉行の差し金で再会したフェレイラは、穴吊りの拷問により棄教し、日本名を名乗り神を否定する書物を執筆、この国では神の概念が異なり教義は誤認され、信徒は歪んだ教義を信じお前のために死んでいると説得される。絶望したロドリゴは穴吊りを望むが、奉行側は背教信徒を拷問、フェレイラに信徒の命か棄教かと迫られ、私を踏めと言う神の声を聞き棄教。彼はフェレイラと共にキリスト教の禁制品の監視役に就き、与えられた日本名と日本人の家族と共に余生を過ごすが、召使となったキチジローの告悔を密かに聞く事も。キチジローが禁制品所持の咎で捕えられ監視は一層厳しくなるが、ロドリゴは棄教を貫き仏教徒として生涯を終え荼毘に伏される。だがその手には妻が密かにモキチの十字架を握らせた。自分達を守るために苦しむ信者達を見てロドリゴは苦悩する。「なぜ神は我々にこんなにも苦しい試練を与えながら、沈黙したままなのか―?」フェレイラ神父の最後の方のシーンでの言葉が印象的だった。「15年この国で布教したが、我々の宗教はこの国には根付かない。この国は沼地で苗を植えても根を植えても腐るのだ」とロドリゴを説得する。そして、「葉を広げた時もあったではないか」と怒り言うロドリゴに、フェレイラ神父はさらに「日本人が信じたのは歪んだ福音だ、我々の神など信じてはいない」と言う。そして、さらに神を❝大日❞と教え、「❝大日❞とは、❝神の御子(サン/son)❞のこと。❝大日❞とは何か教えようか!あれが神の独り子❝太陽❞だ」「聖書ではイエスは3日目に蘇る。だが、日本では❝神の太陽❞は日々昇る。彼らは自然の内にしか神を見出せない。人間を超えるものはないのだ。キリスト教の概念は持てない。」ロドリゴは泣きながら反論して「この国の殉教者は皆信仰に燃えていて無のために死んだのではない」と言う。フェレイラ神父は「彼らはキリストの神のために死んだのではない、お前のために死んだのだ」と言い、「❝山河は新む❞という、意味は ❝山河の形は変われども、人の本性は変わらぬ❞ だ。 とても賢い考えだ。我々は人の本性を日本で見出した、それが神を見つけることだ」と諭した。そして「司祭はキリストにならうと言う、キリストがここにいたら…彼らを救うために棄教したはずだ」と言い、彼の肩を抱き、「今まで誰もしなかった最も辛い愛の行為をするのだ」と呟き、キリストのレリーフを彼の前に置く。ゆっくりレリーフに歩み寄るロドリゴにすべての音が消え、神の声が聞こえる。「それでよい。踏みなさい。私は人々の痛みを分かつためにこの世に生まれ、十字架を背負ったのだ…お前の命は私と共にある…踏みなさい…」ロドリゴはレリーフを足に乗せ、地べたに突っ伏して肩を震わせる。それぞれの信徒から安堵の息が漏れ聞こえ、一番鶏が時を作り、蝉が鳴き始める。先日あるコンサートを聴きに行った。会場は市内では一番大きなホールだが、さすがに第九が前身の「青森ベートーベンスコラーズ」という混声合唱団とソリストと管弦楽団コラボの演奏会は大入り満員で大成功だった。今年の演目は「バッハのヨハネ受難曲」2年に一度の演奏会で、私の知人が何人かいるので大分前から聴きに行こうと思っていた。手元に前売り券はなくもらう予定もないので最初から当日券1,000円を購入して一人で座った。第九の練習指導をしてくださってる指揮者や先生方も出演だったので、興味深く聴けた演奏会だった。前記の映画を見たのはこの演奏会の後だったが、逆だったならもっと興味深く聴けたかもと思った。宗教と言っても、私自身は特に信仰してはいなく、家が浄土真宗なのでそれでそのまま仏事を行えばよい、正月は神棚に手を合わせ、初詣は大仏様に手を合わせと滅茶滅茶だが、映画の感想と自分の生きてきた今までの経験から考えてみると、人が生きている以上絶対なものはなく、神様というものは人が作り出したものの中に真実として見えてくるものであり、人の心の中にあるものと私は考えている。この演奏会についての記事が夕刊に出ていた。書いたのは私が昨年の3月まで所属して今は辞めてしまったおかあさんコーラスのメンバーであり、私に時々このおかあさんコーラスへの愚痴メールをよこす人物だ。それにしてもよくこれほど丁寧な長い感想文を書いたものだと感心した。なぜ、今回初めて彼女はこんな記事を書きたくなったのだろうか?勇気のある彼女の行動にきっとおかあさんコーラスの仲間たちはびっくりすることだろうな。先日の私への彼女からのメールは、いつものように団体への不満で、私にそれを話せば楽になるようであった。しかし、私としてはよく考えると筋が違うように思う。彼女は辞めた私か、会の中にはたった一人だけに愚痴ることで気が楽になるんだそうだ。でも、それは私にすれば一時しのぎでしかないように思う。「そんなに気に入らないなら辞めたら、お金も無駄よ、」と私はいつも彼女に言ってあげる。で、今回は自分が辞めないのは「ずっと歌っていたいから」「他の同レベルのコーラスの人間関係も同じだろう」等と最近あらためて気付いたんだそうだ。それはかかりつけ医に不満があっても、どの医者も似たもんだろうと、あきらめているのと同じ思いだそうだ。そんなわけで彼女は辞めれないで苦しんでいるわけだが、今年は一応しかたなく入会して3年目にして初めて役員を引き受けたそうだ。彼女は辞めた私と中にいるたった一人のメンバーにのみ愚痴を聞いてもらい元気になってがんばりをつないでいるんだそうで、いざとなったら休会して様子をみてからまで辞めないつもりらしい。私にすれば、なんてすごい神経だろうとも思うが・・・まだ入会して3年では本当の会の苦楽が分かり切っていないと思う。私などは二つのおかあさんコーラスを経験して辞めたり入ったりと、合わせて通算20年近くいろんな思いをしてきているのだから、彼女はまだまだ序の口だ。彼女の考えていることは間違っていないし、私も同感することはたくさんあるので、メールでも共感文を書くことが多いが、やはりこの団体の過去の歴史を知らないためにあまりにも露骨にストレートに真実を言いすぎてしまい、相手の感情を傷つけすぎてしまうところがある。単なるクレーマーと受け取られて大変に損をしていると思う。でも、それこそ、人の性格はそう簡単に変わるものじゃないというのでこれが彼女の悲しい性というやつだ。私みたいな人間に話して楽になるのかな?なんて思うが・・・それをわかっているので、彼女を気の毒に思い、又彼女は若い頃から離婚して独り身で私のように家族に愚痴ることができないかわいそうな人、私よりも10歳ほども年上であるので一応人生の先輩であるからプライドを傷つけてはいけないとか思うので邪険にはできないのである。ゆっくりレリーフに歩み寄るロドリゴにすべての音が消え、神の声が聞こえる。人が本当に深く考えて悩む果てに、答えはやはり自分自身が出すものだ。そのときに神の声はおのずと聞こえるに違いない。自分の体の奥深くにある魂が必ず我慢しきれなくなって自然に神の声が聞こえるようになる。そうすれば、自由になり、解放されて、魂が喜ぶと体も健康になる。私は信仰は特にしてないが、自分でそう悟るようになった。私の神の声は私が自分で作り出す。。