北朝鮮サッカーの話1>敗北は北朝鮮を涙の海にする
2010南アフリカ共和国ワールドカップには北朝鮮が出場する。北朝鮮はG組でブラジル-コートジアボアル-ポルトガルと闘うことになった。サッカーは北朝鮮で最高の人気スポーツである。今回は北朝鮮のサッカーに関する話である。-----------------------------------------去年の6月18日、サウジアラビアリヤードにあるキングパドスタジアム。 サウジアラビアとの2010南アフリカ共和国ワールドカップアジア地域最終予選、最後の競技であるB組8回戦が終わるや否や、北朝鮮のサッカー選手たちはお互いに抱き合って涙を流した。北朝鮮としては44年ぶりにワールドカップ進出を成し遂げたのである。当然、彼らは平壌で大々的な歓迎を受けた。 北朝鮮政府は彼らに最高級の褒賞を与えた。16人が「人民体育人」の称号を、 3人が「功勲体育人」の称号を受けた。北朝鮮で人民体育人は、運動選手が貰える最高の名誉である。 北朝鮮はオリンピックや世界選手権大会で優勝した選手だけに人民体育人の称号を与え、アジア圏大会で優勝したら功勲体育人の称号を与える。史上初めてこのように沢山のメンバーが同時に人民体育人の称号を受けたことは、北朝鮮がワールドカップ本選進出をどれ位重要視しているかをよく表している。人民体育人の家族たちは、平壌の一番良いアパートに引っ越したとのことである。特に地方に住んでいた家族たちは、息子のおかげで、貰うのが本当に難しいとされる平壌市民証を得た。北朝鮮でサッカーが最高の人気スポーツであると同時に、国家が最も力を注いでいる分野であることを証明する出来事である。 ところで、これ程サッカーを重要視する北朝鮮が、どうして過去40年間以上、国際舞台で良い成績を上げることができなかっただろうか。このことを理解するために、北朝鮮サッカーが最高の栄光を享受していた44年前、即ち1966年のロンドン・ワールドカップに対する説明が必要である。 1966年6月30日、北朝鮮代表チームとスタッフ66人がロンドン空港に降りた時、沢山の現地人たちが見物に来た。当時、ヨーロッパの人々にとってアジアのサッカー選手は目新しかった。彼らは北朝鮮チームの平均身長が165cmに過ぎないという事実に、非常に驚いた。北朝鮮チームも文化的な異質感を感じたのは同様だった。空港に降りてトイレに行った選手たちは、男性用トイレから「女性」が出てきたので腰を抜かした。通訳の助けを借りて、外国では男性も髪を長く伸ばせるという事実を知った。 北朝鮮チームが到着した日、天気が良くないと有名なロンドンが、大晴れだった。現地の新聞は「清い朝の国の選手たちが太陽を持ってきた」と報道した。組別予選が開かれるイギリス北東部のミドルズブラに移動した北朝鮮チームは、主催者側が手配してくれたホテルを4回も拒絶し、市近郊の未完成ホテルであるセントジョージホテルに宿泊した。宿泊費が安かったので、外貨を節約できるからである。一同は現地新聞の関心の的になった。北朝鮮代表チームが毎日、唐辛子を1kg以上を消費するとしながら、「私たちイギリス人が唐辛子をこんなに食べたら、多分爆発しただろう」というホテルのコック長の話も伝えた。現地の人々の目に初めて映った北朝鮮チームは、「謎のチーム」だった。北朝鮮チームの8強進出を予想した人は、誰もいなかった。同じ組にソ連、チリ、イタリアという当時の強豪たちが控えていたからである。この中で伝説のゴールキーパーのレフ・ヤシンがいたソ連が、最強チームだった。ソ連は予想どおり、この組で北朝鮮とイタリアを圧倒して、組で1位になった。ソ連はこれ以降、準決勝で西ドイツに敗れたが、ソ連が西ドイツに敗れたのは、第2次世界大戦以降、初めての異変だった。西ドイツはソ連選手2人が退場になった後、当時のサッカーの英雄ベッケンバウアーを先頭に立てて、辛うじて2-1で勝った。 ソ連は初の競技で北朝鮮を3-0で下した。スコアだけ見たら北朝鮮の完敗だったが、実際は北朝鮮のディフェンダーたちが大変な身長の差にも関わらず、ソ連の攻撃を巧みに防ぎ止めた。イギリスの「ザ・タイムス」は、「最後のゴールだけが、ソ連が北朝鮮の守備を完璧にくぐった最初で最後のゴール」と評価した。現地の人々は、北朝鮮の実力に非常に驚いた。次の競技のチリ戦には、もっと多くのファンがサッカー場を訪れて、北朝鮮を応援した。チリも1962年ワールドカップで3位になった強豪チームだった。最終スコアは1-1と引き分けたが、シュート数を見たら16対9で北朝鮮が優勢な競技だった。イタリアとの競技は組別予選最後の競技だった。北朝鮮はソ連とチリ戦で主力フォワードたちが負傷していたにも関わらず、パク・デゥイクのゴールにより、1-0で勝った。予選脱落したイタリア代表チームは、帰国して腐った卵の洗礼を受けなければならなかった。初のワールドカップ出場で、北朝鮮は組2位で8強に進出した。当時はワールドカップ本選に16カ国が出場した。8強戦のためにリバプールに移動する北朝鮮チームの後を、約3,000人のファンが従った。北朝鮮チームの競技に魅了された人々が、遠征応援に来たのである。ポルトガルは1962年の優勝チームであるブラジルを3-1で圧して勝ち上がって来たチームだった。北朝鮮は初め3-0で優位に立ったが、結局5-3で敗れた。当代最高のストライカーだったエウセビオが、1人で4本のゴールを決めた。北朝鮮住民たちは時差のため、深夜の1時にラジオでこの競技の生中継を聞いた。3本のゴールを先に決めた時、北朝鮮アナウンサーの声は活気に満ちていた。しかし、1本、また1本とゴールを決められる度に、彼の声から力が抜けた。「あ、またユセピオでした」と伝える中継放送を4回も聞いたので、北朝鮮住民たちは彼の名前をはっきり憶えた。 北朝鮮ではエウセビオをユセピオと呼ぶ。4本目のゴ-ルを許した時から、北朝鮮のサッカー解説者は泣き始めた。そして北朝鮮全域が明け方には、涙の海になっていた。しかし、北朝鮮は初出場したワールドカップで強烈な印象を残した。 北朝鮮に帰って来たサッカー選手たちは、咸鏡北道ズウル温泉療養所に数カ月間宿泊しながら、最高の待遇を受けた。しかしこの時、金日成の後を継いだ金正日の政権掌握の分岐点になる「甲山派(ガブサンパ)」粛清事件が起った。 「ガブサンパ」というのは、韓国戦争の前から咸鏡南道を中心に活動していた共産主義者系列を指称する言葉である。金日成は1968年3月に秘密裏に開かれた労働党中央委員会全員会議で、唯一体制の樹立に邪魔になる「ガブサンパ」の粛清を決めた。(次回に続く)