仏教は哲学
ツボサンゴ仏教は哲学西洋人の学者は、仏教は宗教ではなく哲学だと言う。仏教には「信解行証」という言葉があり、意味は、先ず仏の教えを信じ、理解して行を修し、悟りに到るということ。しかし、仏教はキリスト教などとは異なって、信じることが全てではない。仏の教えを信じて正しく理解することが信なのだ。信仰だけを強調する宗教とは、原点が異う。華厳経には、「信は仏道に入る第一歩である」と書かれている。清らかな信は清らかな心に生まれるもの、先ず心を清らかにすることによって、仏の教えが正しく理解できる。布施をしたり、戒律を守ることから入ってはいけない。逆に、意味も解らずに信じ込んだり、狂信に走ることは、仏教の教えに反する。ドイツの宗教学者は、仏教の根底に横たわる体験は、最終的には理解であると指摘している。仏教は落ち着いた冷静な理解が必要で、冷静な信ができると、真理が見えるようになる。信がなければ、暗闇の中で迷い、右往左往してしまう、それが地獄だ。正しい理解によって信を得ると、人間の心は清らかに澄んでくるが、宗教家を名乗っていても、正しく理解していない、信を得ていない、心が清らかに澄んでいない、そういう人間が多い。では、仏教にはどうして信が生まれたのか。それは本来、人間の心は清浄だからだ。仏教の根底には、自性清浄という確信があり、煩悩に染まった心を澄んだ清らかさに戻すことが仏教の信の意味なのだ。邪教は心を狂わしてしまう。「信はよくもろもろの染着を捨離させ、信は微妙甚深の法をわからせる」執着から離れさせ、捨てさせることによって、本来の清浄な心を自覚させる。すると仏陀の教え、すなわち真理が自ずと心の中にあらわれる。盲目になることが信仰ではない。澄んだ心になって、迷いをなくすことが本当の信仰なのである。