三栖閘門
三栖閘門京都市伏見区葭島金井戸町京阪電気鉄道中書島駅より徒歩9分伏見出会い橋から川の流れに沿って南に進むと、大きな赤い鉄の扉が見えてきます。これが三栖閘門(みす・こうもん、みすのこうもん)です。三栖閘門は、昭和4年(1929年)に完成しています。現在は使われていませんが、当時、30万円以上をかけて建設されたということです(当時、大卒初任給は約70円)。「閘門」とは、水位の違う2地点間を船で行き来するために、水位の調整をする目的で設けられた水門のことです。対となる門が、上の写真です。宇治川との間を仕切っています。この場所に船を入れて、水位を調節していました。宇治川側から見たのが上の写真です。上流側の門は開いていています。十石船はここをくぐって、手前の船着き場までやってきます。この船着き場は、観光の目的で十石船が運行されるようになって設けられたものです。三栖閘門は、伏見港の歴史や、宇治川の治水と密接に関わっています。太閤秀吉が伏見城を築き、そのお濠として宇治川派流ができ、伏見港が置かれます。角倉了以による高瀬川(二条~伏見)の開削もあり、京都と大坂は水運で結ばれ、伏見は中継地として栄えます。一方で、かつて存在した「巨椋池(おぐらいけ)」と宇治川を築堤により分離するなど、秀吉の時代から大掛かりな土木工事が行われてきました。しかしそれでも、宇治川流域は常に水害に悩まされてきた地域でもありました。明治時代になり、外国人技師を招くなどして、淀川水系で大規模な治水工事が行われます。大正時代におこった水害で、観月橋から三栖にかけて堤防工事が築かれ、ここに三栖閘門が設けられました。現在では、上流の天ヶ瀬ダムによって宇治川の水位が下がり、船運もなくなったため、その役割を終えています。