雑感
日本では3万人を超える人が毎年毎年自殺している。1998年に3万人を超えてから一度も3万人を切っていない。3万人という数は交通事故で亡くなられた方の4倍~5倍の数値になる。前掲記事の本「学校は死に場所じゃない」は、いじめについて、漫画「ライフ」を題材に考察が繰り広げられており、甘い表紙とは少し趣きの違う内容となっている。学校は死に場所じゃない読みながらぎゅぅぅっと肋骨が締め付けられるような気持ちになる。ついこのあいだも同じような気持ちになったことがある。それは障害者の方がただ道を歩いているだけで「健常者」に日常茶飯事のようにいわれのない嫌がらせを受けているという事実を読んだときだった。中には嫌がらせなどというレベルではない、犯罪と呼べる内容のものもあった。他にもある。職場での「いじめ」に関する本。とあるセミナーでは自殺者の方の遺書も拝見させていただいたことがある。どうしてこんなことに・・・と言葉を失う。労災で認められるケースはわずかだ。いや認められたとしても何が代償だというのだ。人の命に等しい代償などあるはずもない・・・。ママ友達なんかで、グループになったとたんに誰かが思うままに振る舞い、誰かがそれに従うという図は案外簡単に出来たりする。思うままに振舞う人が、思うままに振舞う理由をさも当然のように語ったとたん、なぜかそれがとてもスジの通ったことのように聞こえたりもするのだから不思議である。私はたくさんのことを知っている。私は明るい。私は頑張ってる。まぁなんでもいいのだ。ときとして言ったもん勝ち。私に中高でいじめられた経験があるかと聞かれれば、あるんだろうなぁと思う。上靴がなくなったりしたことはないが、口をきいてもらえなかったことはあった。クラスで人気者だった女の子のきまぐれにあたって、そういうことが何週間だったか何ヶ月かだったか続いたことがあった。あるとき唐突に始まり、あるとき唐突に終わった。はじまるときも終わるときも彼女は笑顔だったような気がする。ぞっとする笑顔の存在を知ったのはこのときだったんじゃないだろうか。でも、あんまりいじめられているとは感じなかった。悔しかっただけかもしれない。いじめられている理由がわからないのに、いじめられているということがどういうことなのかわからないのに、自分がいじめられているなんて思うことが出来なかっただけかもしれない。単に納得がいかなかったんだろうなぁ。納得がいかなかったけれど、自分のなかに自分がどっかおかしいんじゃないかという疑いのようなものは明らかにそこで生まれたような気がする。自分に非があるのかもしれない。でも何が非なのかわからない。そうなると何もかもが非に思えてくる。それこそ生まれてきたことそのものが非、みたいな。ぞっとする笑顔にはあまり屈した感じはなかったが、例えばその後の人生において、おもしろくもないのに笑ったり、話しかけたくもないのに話しかけたり、そんな不自然なことはたくさんするようになった気がする。だからあいまいな関係は苦手だった。会社の同僚とかならまだしも、例えば近所の人だとか、子育てママつながりとか。何がつながっているのかいまひとつ実感の持てないものはかなりのあいだ苦手だった。生きてて良かったと思える友達に出会えたのは、30代後半である。それまでに出会えた友達も大事だったけれど、たとえばささいなことで「私に非があるのでは?」と怯えたりすることも少なくなかった。関係を壊さないように大事に大事に扱っていた。それが友達関係なんだと思っていた部分は大いにあった。でも今は、「私に非があるのでは?」ということに囚われなくなった。そうなったら、そのときの自分が会いたいと思える人は、みんな大事な存在なんだとなんの疑いもなく思えるようになった。それこそ中高の友達も。つい最近知り合った人も。相手が笑っていようが笑っていまいが関係ない。関係の扱い方で変わったりもしない。私が会いたいと願って相手が会いたくないというかもしれないけれど、それはそれでいいと思うのだ。(まぁそいう関係はめったに起こらないが)というわけで、元々とっつきの悪い私はさらにとっつきが悪くなった(爆)ママさんたちで盛り上がっていても、なんかちょっと違うなぁというときには無理しない。ひとりでいればいいだけだ。ひとりでどこへでも出かけていき、ひとりでフツウに過ごせる。縁があれば初対面の人とも不思議とどちらからともなく話しかけ、会話する。そういうときに「話してつまんなかった」という人にはまずあたらない。自殺の話からめちゃめちゃ遠くなってしまったが・・・(--;自殺について語ることは、やっぱり力不足だ。お願いだから、後生だから、とにかく死なないで、死ぬな!と思うけれど、その言葉はあまりに軽すぎる気がする。生きててよかったとか、生きてて楽しい、と思えることは幸せだし、恵まれているし、かけがえのないことだけれど、そんなに手に入るもんじゃないようにも思う。少なくとも私は今までの人生の大半が、楽しいことはあるにせよ、概して生きてることは苦痛だと思って過ごしてきた。だからといって10代の子にそんなもんだともいえないし、40になったら楽になるよ、なんてバカらしい話も届かない。10代にとって明日は限りなく遠いのだ。今日で胸がいっぱいになる。今日の苦痛で自分の頭のてっぺんから足の先まで一色に染まる。風穴などそう簡単にあけられやしない・・・。そもそも、いじめられるほうに話すのがスジなのか?とも思う。いじめる側にきいてみたいことはいっぱいある。アンタの今日という日はどんな色に染まっているのか?とか・・。そして、それは、たとえば30代、40代、50代の、いわゆる立派な大人社会にも蔓延している・・・。たかだか上司という肩書きで、どうして部下の尊厳をずたずたに出来るのか・・・そのとき上司は一体何色に染まっているのだろう・・・。・・・と、とりとめのないことばかり。ただただ、胸はざわついて・・・。