短編 『Priceless-Helpless』 6
マーガレット(1) 「雨になったぞ。最悪だ、大凶だ」ぼくはフジオと目を合わせずに気違いじみた怒鳴り声を上げた。フジオは漫画本から面倒臭げに顔を上げ、「いちいちうるさいよ、雨なんかでぎゃあぎゃあ。世の中にはなあ・・・」と言いかけて自分でも嫌気がさしたのか口をつぐんだ。おまえなんかには分からないだろうが、半年前ぼくの妹が×××し、父親が★★★になったのだ。だが、今となってはどうでもよい。妹の一人や二人、父親の三人や四人何でもない、へっちゃらだ。そんなことが不幸だったら、ぼくが可哀想じゃないか。深刻ぶるのはしゃらくさいんだ。フジオは何か考え事でもするようにしばらく宙を見て、再び漫画本に目を落とした。世間の人を思いやっても大学には受からない、それより世間の人を騙すことを考えた方がいいんじゃないのか、と言おうとして、よした。くっくっと笑いを噛み殺すように肩を揺らしてフジオがぼくを見ていた。「おまえはさあ、欲求不満なんだよ」さも自分は欲求が満たされていると言った感じでフジオは言う。「ほら、前に連れてきた女がいたろ、ヨシモトって、あの女のところへ行こうぜ」何を言い出すかと思えばそんなことだった。ぼくはベッドに腰を下ろし、煙草を吸った。雨が窓を叩いていた。際限なく雨の打つリズムが不思議と僕の体の中に響くように感じた。発作的に父を思い出し、妹を思いだした。今この瞬間にここから三百キロ離れた町の病院で父が★★★し、あたかも父親であることを放棄したように★★続けている。妹の○×は今や完全に損なわれ、この先何か一つでも良くなる見込みはまるでなかった。僕は何かを変えようとするわけでも、何かを待っているというのでもなかった。何も変わらないのだ。自分のこの生活こそどうにもならないものだった。どうしようもない時間ほどどうしようもないものはないじゃないか。ぼくは今にも、腹筋がただ痙攣するだけの、だらしない笑いが込み上げてくるような気がした。フジオの誘いに乗ってその女のところへ行くことを拒む理由など本当は何もないのだ。フジオの言うただでやらせるあの女に会って、どうするわけでもないにせよ、少しくらいは気を紛らわせることができるかも知れない。もう長い間フジオ以外の人間と口を聞いていないというのも、考えてみれば異常なことだった。ぼくはテレビの上にあったコーヒーの空き缶に煙草を入れ、「じゃあ行こうぜ」とフジオに向かって言った。フジオは一瞬意外そうな顔でぼくを見上げ、すぐに大袈裟な笑い顔を作り、訳もなく犬のように吠えながらぼくの体にしがみついた。ぼくは変に白々しく、自分が自棄糞そのものである気がし、フジオもきっとそうなのだと思うと、それが自分たちに似つかわしい気がして嫌だった。 冷たい雨の中を駅に向かって歩きながら、「マーガレットって喫茶店なんだ」と秘密を打ち明けるような声でフジオは囁いた。女はそのマーガレットという店に、兄と一緒に住み込みで働いているのだと言った。駅へと続く繁華街は、雨に洗い流されていっそう汚らしく見えた。真っ昼間に見るキャバレーのネオン看板ほど惨めで胡散臭いものはないとぼくは思った。この通りはそういったもので溢れていた。自分の住むこの町全体がぼくの心を映し出すようで、目を背けたくなった。駅前の広場にでると天候のせいか、いつもはうじゃうじゃいる鳩の群が見えなかった。 電車に揺られ、三駅目でぼくたちは降りた。改札をでると、ゴールデン横町というアーチが一番最初に目に飛び込み、ぼくの町と似たり寄ったりの連鎖街が続いていた。どこへ行ってもこんなものだった。フジオは肩の上でビニル傘をくるくると回しながら、さっきラジオで聴いたジャズを口笛で吹いていた。ここにも、野良犬がいた。連鎖街の途中に、ぼくらが乗ってきた鉄道の線路が横たわり、遮断機の下りた踏切の前で黄色い電車が走り抜けるのを見た。土埃の臭いがぼくの体に纏い付き、傘から垂れた滴が首筋から背中に滑り落ちていくのを感じた。踏切を越えると緩い傾斜の下り坂になり、一昔前の商店街といった感じの道に出た。婦人服を売る店や、果物店が軒を連ねている。どこか実家のある町に似ているとぼくは思い、反射的に妹のことが思い浮かぶのに耐えられず、突然フジオの頭をこづいた。「何すんだよお」とフジオはぼくを睨み付け、「おまえ調子に乗るんじゃねえぞ」と言った。一体どういう意味かと思った。おまえは何様のつもりなんだ、いくら凄んでみたところでどうにかなるような人間じゃないじゃないか。ぼくは無駄な苛立ちにすぐ足を取られる自分を押し隠すように平然と、「マーガレットってどこなんだよ」と聞いた。「おかしいな、この辺で曲がるんだけどなあ」とフジオはきょろきょろしながら一つ先の角まで小走りで駆けてすぐに戻ってくる。「曲がるっておまえ、さっき曲がったじゃねえかよ」と語気を強めると、フジオはうんざりしたような目でぼくを見、「分かってるよ、もう近くなんだ、この辺にヤマノって薬局があるから探せよ、そこ曲がるんだ」と言った。ぼくは、そんなもの見つからなくて結構だと思った。マーガレットなんていう喫茶店になど本当は行きたくないし、フジオのお目当てのただでやらせる女など興味はなく、そんなもの消えてなくなってしまえばいいという気がしていた。雨足が強まり始め粒の大きな雨がビニル傘を激しく叩く。脱力して突っ立っているぼくはその姿勢のままアスファルトに打ち付けられてゆく釘のように動けずにいた。風景に爪を立てて色を削り取った後のように雨が降り注いでいるその向こうで、「あったあった」とフジオの声が聞こえ、歩道のへこみにできた水溜まりをジグザグに避けながら駆け寄ってきた。「あったよ」とやけに弾む声でフジオは言い、一体何が楽しくて笑うのか、ぼくはつられて笑いそうになる顔を強張らせた。フジオの後を付いていくと,緑のシャッターが下ろされているヤマノ薬局がすぐに現れ、壁に貼られた化粧品のポスターには、黒いマジックで女優の顔が塗りつぶされていた。「全く非常識な奴がいるんだなあ」ポスターを見つめながらフジオは言い、その台詞がいかにも見当違いのような気がしてぼくが吹き出すと、振り向きざまに変な目でぼくを睨む。