北京在住日本人が香港に行くと
新香港国際空港から一歩外へ出たら、湿気を帯びた空気の中に脂身のにおいを感じた。その瞬間、自分の体の中の脂肪もどろんという音をたてて液体に変化した気がした。まばゆい。いろんな人に予告はされていたけれど、北京から行く香港はやっぱり日本から行くのとは全然違っていた。出迎えの車のサンルーフからのぞいた亜熱帯の青空も緑も、町にあふれる物のひとつひとつも、文明があるように思われた。傍から見たら私は典型的な日本人観光客らしかったが、その実内面は大陸経由にねじれた自分の感覚の修正をしようと、結構緊張していた。ホテルがえらく中心街から離れたところにあったので、コンシェルジュでボーイにバスの乗り方を教えてもらっているとき、「今まで香港来たことあるか?」と尋ねられ、「10年前に来たことあるよ」と答えたら、「はっはっは、そりゃおもしろい冗談だ」と返された。冗談?10年って冗談なんだろうか?私が思っている以上に10年間は彼にとって長い年月だったのかもしれない。そして香港にも。即バスに乗った。北京ではありえないくらいしっかりエアコンが効いた2階バス。それも座席にシートベルトがついている。送迎の車の中で運転手のおじちゃんに「シートベルトしてね、香港では決まりだから」と言われたのを思い出す。やっぱりここは中国ではない。中心街までバスだと30分かかると聞いたけれど、久しぶりに眺める香港の風景の新鮮さもあって、ちっともイラつかない。なにしろ渋滞がないから。確かに多少流れがつっかえたりはするのだけれど、あの国貿交差点の、我先にと割り込みが過ぎて、にっちもさっちもいかない排気ガス充満の光景を思い描くと、世界を代表するショッピングストリートなのに、何でこんなに快適なんだろう?と思う。香港で出会った日本人女性がこんなことを言っていた。「地元の人が言うんだけどね、イギリス統治時代は香港ってイギリスっぽかったのよ。でも、中国に戻ってからね、何だか日本っぽくなってきたらしいの。」そういうとなるほどだ。街を歩けば、日本のチェーン店がぞくぞく進出、お店のレイアウトやポップも日本のどこかで見た感じ。バスの広告には竹之内豊&チェ・ジウ。 旺角の商店街の間を歩いていると、新宿の三越の裏通りに似た錯覚を感じる。身に着けている物を見て日本人かな?と思ったら、会話が広東語なんて女の子もたくさんいる。言葉を聞かない限り誰が日本人なのか見抜けないくらいファッションの好みが似通ってきている。日本から香港に来る観光客は、張り出す看板の続くネイザン・ロードに異国情緒を感じるのだろうけれど、大陸から来る日本人は、明らかに香港の中の日本に擦り寄りたくなる傾向が強いんじゃないかと思った。ということで、心置きなく日本人らしくしていようと思ったけれど、確かに物価に対しての感覚はやっぱり大陸人だった。北京だったら、これいくらで買えるなあと、頭のそろばんをぱちぱちはじいていた。見た目が日本人していたから「ニセモノドケイ」とやたらに声をかけられるものの、その「ニセモノドケイ」を買う気にもなれないんだからね。