競馬は科学的血統調査からはじまったのでは?
競馬は、ブラッド(血)スポーツと俗にいわれている。サラブレッド(「血を通じて」という単語に類似)を遡ると、3大アラブ種(バイアリーターク、ゴドルフィンアラビアン、ダーレーアラビアン)に至る。 なので、いまあるサラブレッドの血統を遡れば、必ず、上記の3種に至るとされている。発祥の地は、イギリスである。イギリスといえば、王室、つまり、血統の国といえる。 さて、つい最近、「維新の暗号」という本を読んで、血統を科学的に調べるには、どうしたらいいのか?という、さしてどうでもよい疑問が浮かんだのである。とても科学的とはいえない、貴族の家系図があるが、家系図などは、幾らでも詐称できる。 勿論、いまではDNA鑑定が最も科学的とされるだろうが、DNA鑑定では、現在も生きている人間ならば、比較的容易にサンプルを入手できるだろうが、死んでしまった人間を調べるような場合、死んだサンプルが本当に目的の被調査(鑑定)者のものなのか、ここにまた伝聞に頼らざるを得ない結果となるだろう。 それに、何代も継代を重ねるうちに、(母系ならミトコンドリアゲノムがあるが)父系の塩基配列がどのように変わっていくのかも、疑問点として浮かび上がる。それよりも何よりも科学的調査には、莫大な費用、お金がかかり、費用ばかりでなく、労力や労働時間、何より判明するのに、時間がかかり、判明したからといって、さほど恩恵が得られるどころか、途中で政治的(人間力学的)介入が入りやすく、ほとんどが詐称を暴くものとして、闇に葬られかねない、非効率であるように思われる。 「知らぬが仏」という諺がある。なんでも科学的に調査し、厳密な正確さを要求したとしても、時代がその要求に必ず応えるかどうかは、また別の話なのである。科学的に厳密なのが、人間社会を構築する上で、必ずしも望ましいとは限らない。 科学者が、日常生活を科学的、つまり確率の高いものから優先して選んで生活しているとは限らない。科学者は科学的どころか、非科学的な生活を営んでいることが多いことがわかるだろう。第一、可能性が高いということは、比較的容易なのであり、そこにブレークスルーが生じる余地はないだろう。 現代で考えれば、以上の議論も考えられるが、DNA鑑定など思いもよらない18世紀においては、とりあえず、動物で実験してみるのが、手っ取り早いだろう(実は、とりあえず動物実験のこの発想は、血圧測定の歴史をネット調べていたときに、いきなり人間の血圧測定ではなしに、馬の測定からはじまったのを知ったためである)。 血統の場合は(メンデルがエンドウ豆で試行したように)、年齢が短い小動物からはじめるのが簡便で、恐らく犬、猫、家畜でやってみて、品評会を開き、遺伝能力を吟味したのではなかろうか。そのときおそらく、賢さ等が求められたのであろう、動物における血統遺伝の、その賢さの基準を、王立の大学において、更に吟味し、人間に適応してみたのだろう。 なんとも、安直な発想で書き続けている自分が怖くもあるが…。 だから、イギリスの大学は、王立なのであろう。王立ではなにより血統の血が重んじられるのである。その過程で知能指数なども誕生したのだろう。しかし、賢さ、知能の基準ほど曖昧なものはない。まだ、貴族社会が、血統故の賢さに依存していた時代ならば、ただ、賢さイコール血統と単純に置き換えられていたから、陳腐でも何の問題も生じなかっただろうが、賢さイコール血統でなくなったとき、更に目にみえる、明確な判断基準を求めるようになる。 それが競馬なのではなかったのだろうか? 競馬はわかりやすい。どの血統の馬が一番先にゴールに辿りつくのか?で、一目瞭然に判別できるからである。競馬に至って、血統は、賢さから、速さに変わったのである。しかも、比較的万人が監視するなかで、誰でもその結果を判別できるのである。特定の専門家に依頼する必要もなく、専門家の信用性に依存する必要もない。権威も無関係で、誰でも予想でき、自分の目で確かめられるのである。いわば大規模公開実験といえるだろう。どの血統が一番先に、ゴールに着くのか?が衆目一致で明らかなのである。そして、通常の動物実験のように、死体を用いるものでもない。 競馬は、誰もが血統動物実験の観測者なのである。 しかも、競馬はギャンブルになり、一番、正しい予測をしたものに報酬が与えられる。 日本では毎週末に、競馬という、血統動物実験が、独立採算性、しかも、国家財政に潤いをもたらし、還元、貢献しているのだから、凄いことである(オグリキャップが出なかったら、日本は湾岸戦争に資金を提供できずに、人命を失ったであろう。ただし、日本には、感謝の言葉はなかったが…)。後は、血統理論を確立するだけであろう。 そして、今週末は、わが国のダービーなのである…。