国民を救うことで国家が立つ
有体にいって、国家とは、国民の生に対する信頼の拠り所となるものであらなければならない。家族において、父親の存在が、生きることの信頼の模範であり、母親の存在が、生きることの愛情の発現であるように、国家とは、子供である国民の、生への希求であらねばならないといえる。 しかし、一言で、生といっても、ただ生きること、死を免れることではない。古代ギリシア時代の哲学の命題であったように、「よく生きる」ことの問いかけの生のなかにある。 学問とは、問う学と書く。では、「なぜ、問うか?」といわれれば、答えを求める為であり、答えを基に、己の理解を深める為にある。問うことに対して、真善美がその答えにどれぐらい含まれているかで、理解力が、得られるといえるだろう。 理解力が深まることで、意識が変わる。俗に、技術者や、匠といわれる技の達人が、素人の視点とは、大いに異なる、俗にいう「心眼」をもつのは、この理解力、並びに、問い答えるという繰り返しの手続きを、体験を通じて行ってきた証といえるだろう。 逆説的にいえば、理解力を深めるには、「問う」力が、必要で、いかに「問う」かで、理解力が呼び醒まされるといってもよいだろう。 堕落した精神には、この「問い」が欠けている。「問い」が欠けるのは、自らの存在に疑問をもたないからである。そこには、自分こそ、最善であり、真実であり、最も美であるという傲慢さが潜んでいるといえる。 実は、このような存在こそ、悪で、偽で、醜の何者でもない。このような存在には、向上心や、自らが背負う罪意識に欠けているといわざるをえない。 自分が常に正しいと考えている輩こそ、性質の悪いものはない。「問い」のない者、疑いのない者、このような者は、自分を悪とは決して思わないからである。 だからこそ、古代ギリシャ時代から、懐疑主義という態度が尊ばれてきた。ソクラテスの「無知の知」はある意味、本当に、正しいのだろうかという「問い」の懐疑主義といえる。 無知の領域を知ることで、新たに、知を深めることができる。 知を深めれば、意識が自ずと変わり得る。いままで、みえなかった領域がみえてくる。 ただ、無意識的に生きているという状態から、意識的に生きるという意志を目覚めさせることができる。いま生きていることの現代人の意識が、あまりに無意識さ、他者に依存して生きることに馴れてしまった為に、死にゆく存在だということさえも、我々現代人は忘れているようである。 なぜ、連日、殺人事件が起こるのであろうか? この世から戦争がなくならないのだろうか? それは無意識に生きていると、死を身近に感じない人間が増えているからだともいえるだろう。死を意識すれば、生に対して、意識的にならざるにはいられない。 死は、生をより意識的にする為の存在といえるだろう。 悪は、より良い善を導く為にあるといえるだろう。 死は、生に救いをもたらすのである。 死がなければ、生もない。無意識な生は、もはや生ともいえない。ただ、死がない生である。意識がない人間、それは人間が、機械と同じ存在になったことを意味する。魂が消えたことを意味する。 国民を救う意識がない国家とは、もはや生きている国家とはいえない。少なくとも独立国家ではなく、従属国家である。 国民を救うことで、国家は、よりよく永らえるといわねばならない。