地震に風水害、干魃… 元号も改めさせた「神の祟り」
「一天にわかにかき曇り、真っ黒い雲の中より、現れいでたる怪しの影…」。子供のころ耳に残ったNHK人形劇『新八犬伝』の坂本九さんの名調子。怨霊の出現に、テレビの前で身を硬くしたものだった。災害列島である日本では古来、風雨水害や地震、干魃(かんばつ)などの災厄は、神の意志である「祟(たた)り」をもって語られてきた。現代の科学の目をもたなかった当時の日本人は、容赦ない自然災害に荒ぶる神の力を見いだし、鎮めの儀式を営むことで、順応しようとした。このことを、平成18年に刊行された『日本災害史』(吉川弘文館)はこう説明する。《原因不明の解決困難な事態に直面したとき、古代人は夢占(ゆめうら)、亀卜(きぼく)、易占(えきせん)といった卜占を行い、隠された超越的な意志のありかを感知しようとした。「祟り」こそはその問いに対する神の回答であり、不可知の事柄に論理と一貫性を構築し、原因と対処法を与え社会不安を取り除く一種の防衛規制だったのである。(中略)功を奏した体制が、次なる「祟り」の発現まで維持されることになるのである》このような「祟り」への対処は、時の権力者がなすべき務めであり、人心掌握のための一大事業だった。古事記には、第10代の崇神天皇が夢占に現れた神の「わが子孫を捜し出し、私をまつらせよ」というお告げの通りにすると、疫病は終息し、国は安泰になった-という記述もある。そうした対処策の一つに、改元がある。今でこそ、元号を改めるのは皇位継承があった場合に限る「一世一元」が継承されているが、明治以前、特に中世から江戸時代末期までは、さまざまな理由で改元が行われていたという。気象学者の荒川秀俊氏の昭和39年の著作『災害の歴史』(至文堂)によると、地震や風水害などの天災に疫病、火災、飢饉(ききん)、戦争などのほか、不吉の前兆とされた彗星(すいせい)の出現までが改元の理由となった。冒頭で触れた『新八犬伝』の原作である『南総里見八犬伝』は、長引く飢饉による権力の失墜につけ込んだ隣国との戦争が物語の発端となっている。それを裏付けるように、舞台となった時代の元号「長禄」、そして次の「寛正」とも、飢饉や戦争などが原因で相次いで改元が行われた。長禄3(1459)年には、京を台風が直撃し、賀茂川の氾濫で多くの住民が死亡。その後も飢饉の継続に加え疫病が流行し、寛正2(1461)年には京だけで8万人の死者が出たとされる。こうした都の混乱は、のちの応仁の乱につながった。この時代の飢饉(ききん)の遠因となった干魃は、過去に世界的規模で繰り返し起きており、ローマ帝国の滅亡をももたらしている。これほどまでに、自然災害を中心とした災害は当時の人々の生活を左右するものであり、それゆえに、自然と人間との距離は現代よりはるかに近かったといえるだろう。(msn産経ニュース)----------------------記事にあるように、科学の発展以前の方が自然と人間の距離が近かったことは確かだろう。人々の生活は作物をつくることで成り立っていたし、それが自然からの贈り物であることも恐らく分かっていただろう。人は自然を畏れ、敬いながら暮らしていた。その意味では災害と人の距離も近かったのではないかと思う。災害を鎮めるために時の権力者は様々な儀式を行った。また、古い時代には災害があった際の被災地への配慮も相当であったという。それは当時災害が起こるのは権力者の不徳によるものだと思われていたからなのだという。災害により権力者は不徳を改め、民衆に手をさしのべ、鎮めの儀式を行ったのだろうか。現代では科学が万能であるかのように思いがちだが、科学の力でメカニズムを解明したとしても、災害を防ぐことなどできない。そしてかつてに比べて自然と人、災害と人の距離が空いてしまったことで、現代社会はそれまで以上の危険をはらんでいると言えまいか。「想定外」という言葉はその典型で、人が自然を想定することなど本来は出来ないはずなのである。もちろん、そこには言葉の誤解があって、想定とはあくまでもハードなどの対策のための基準であり、それ以上の意味は持たない。しかし人はその言葉を聞いて、あたかも災害というのは想定できるものなのだ、という勘違いをしがちである。かつて私たちの祖先たちがそうであったように、自然を敬い、正しく畏れることは少なからず必要なことなのではないだろうか。人は自然に対して本来もっと謙虚であるはずだ。