動物の権利活動
以前、とある毛皮反対運動に反対される方のブログで、PETAを引き合いに出して反論したところ、「テロリストの烙印を押されない範囲でどうぞご自由に活動してください」などとと揶揄されたことがあります。多分、PETAの裸での毛皮抗議運動なども、からかうように面白おかしく紹介されていたので、「テロリスト」発言も単におもしろおかしく揶揄しているだけだと思うので取り上げる必要もないかもしれませんが、安易に特定の市民団体に対して「テロリスト(テロリズム)」という言葉を使うことに抵抗を感じたのでちょっと考えてみました。まず大前提として、私はテロリズムを容認するものではありません。問題は、何をもってして安易にある市民運動がテロリズムである、と断じることができるのか、ということです。テロの定義に関しては、以下Wikipediaからの引用ですが、「テロリズムの研究者の学術的な定義や各国政府の行政機関による定義付けをしているケースもあるが、その定義自体が政治的意味合いを含む為、様々な論争がある」とされているように、国際的な明確な定義はありません。(基準策定の動きはご存知のようにもちろんあります)かつて、インドの独立運動を主導したマハトマ・ガンジーは、当時インドを支配していたイギリス政府からはテロリストと位置づけられていました。今日ではガンジーのやったことは功績としてたたえられており、多くの人が尊敬しています。マーティン・ルーサー・キング牧師はガンジーに影響を受けたということをはっきりと認めています。「いや、インドはイギリスの支配下に置かれるべきだったから、ガンジーのやったことは間違っている」と考える人は少ないでしょう。ガンジーの独立運動における活動のような行為は、一般に「市民的不服従」と言われます。「市民的不服従」は、アメリカのヘンリー・デビッド・ソローによって書かれたエッセーで初めて提唱されました。市民的不服従とはすごく簡単に言うと、「個人の信条・良心にしたがって行動することを法律よりも優先させる(特に法律が間違っていると考える場合)それが違法とされた場合罰は甘んじて受ける」(かなり大雑把ですが)というものです。ガンジーもこのソローのエッセイで学び、独立運動を発展させたとされています。ガンジーはこのように言っています。「市民的不服従は、市民が市民であろうとする市民の本来的権利である。これには規律、思想、責任、留意、犠牲が必要である (Civil disobedience is the inherent right of a citizento be civil, implies discipline, thought, care, attention and sacrifice)」(Wikipediaより引用)身近な例を挙げるとすると、沖縄の辺野古での、米軍基地建設阻止のための座り込みなども市民的不服従の行使だと言えるのではないかと思います。(私は支持しています)日本では、欧米での奴隷解放運動、公民権運動、女性の開放運動といった運動や、アフリカやアジアにおける独立運動などのように、過去に国全体で自分たちの権利や利益や誇りを賭けて体制と戦い、勝ち取ったという歴史がありません。民主主義は敗戦とともに、求めなくても入ってきました。そのためか、「長いものには巻かれろ」という国民性のせいか、ある種の権利や信条の主張をし、それを実現するために立ち上がって戦おうとする人たちにかなり冷ややかな反応をする傾向があるように思えます。もちろん、ガンジーがテロリストとされたように、上に挙げた歴史的な活動も今ではごく当たり前のことですが、活動が起こった当初は既得権益をもつ人たちに揶揄されました。フェミニズム運動の先駆者、メアリ・ウォルストンクラフトが1792年に「女性の権利の擁護」を刊行したとき、男性から(しかも学者といった知識階級の人です)「女性に権利を認めるだって!ならばそのうち誰かが動物にも権利を与えようと言い出すだろうよ」と揶揄されました。皮肉にもこれは現実となりましたが。また、アフリカン・アメリカンが奴隷だった時代、彼らの権利や利益に関心をもつ人たちは「ニグロ・ラバー」と非難されました。ですから少数派の意見が揶揄されたり、冷ややかな対応をとられるのは今に始まったことではありません。というかありがちなことでした。市民的不服従は、先にソローが示した定義のように、時には違法行為も含まれます。反アパルトヘイト運動で有名な、南アフリカのネルソン・マンデラ氏も、ガンジーも実際何度も投獄されています。日本人は「違法行為」と言うことに極端に拒否反応を示す傾向があるように思いますが、実際違法行為なんてしないに越したことはないのですが、(誰だって捕まりたくはないでしょう)時にはそのような手段も必要なのではないでしょうか?インド人が、「インドはインド人の国だから返してください」とイギリス政府にただ頼んだだけだとしたら、イギリスは納得してインドでの利権を簡単に手放したでしょうか?沖縄での基地建設妨害のための座り込みは、テロリズムでしょうか?それともそれはテロではなくて、動物の権利のための市民的不服従はすべてテロリズムなのでしょうか?すべての実力行使をもってして、安易に「テロリズムだ」と言うことは避けるべきではないのでしょうか。動物の権利のための運動は、独裁政権の樹立を目指すものではありません。動物の権利のための運動は、人間の権利より動物の権利を優先させようという活動ではありません。動物の権利のための運動は、動物に人間を支配させることを目的とはしていません。動物に参政権を認めようというものでもありません。動物だけの独立国家の建設を目指しているのでもありません。人間と動物の平和的な共存を目指しているのです。文章が下手なので、うまく言いたいことが伝わってないかもしれません。違法行為を支持しているのか、と非難されるかもしれません。私自身、言いたいことを整理できてなくて、何が言いたいのかよくわかってないのかも知れません。ただ、私は動物の権利のために日々がんばって活動している団体の活動家を尊敬し、支持しこそすれ、安易にテロリストなどと責めることはできません。きっといつかは動物にも権利が認められる日が来ると信じたいです。今日の私たちがアメリカのかつての奴隷制度に嫌悪感を感じるように、未来の世界では「昔って動物の毛皮を人間が着てた時代があったんだって!信じられない!どうしてそんな残酷なことができたのかなぁ?」というような日がくることを願っています。「動物を殺すということが今、人を殺すことに対して見るのと同じ様なな目で見られる様になる日がいつか来るであろう。」 -レオナルド・ダ・ビンチ