本因坊列伝 道知
棋聖道策が死に瀕して跡目に立てたのが道知(1690-1727)。 道知が五世本因坊になったのは13歳で、算悦のときに事情が似ている。後見人となった井上因碩(桑原道節、名人因碩)は、本因坊道場に住み込んで道知を鍛えた。このとき四段というから、道的ほどでないにしても並々ならぬ天才児である。 それから3年後、後見の因碩は、安井仙角(六段)に互先の対局を申し込む。これは道知を六段に進めるという意である。仙角は道知との対局が少ないことを理由に拒否し、争碁に発展する。争碁は、道知五段、仙角六段なので先相先の手合割となる。 この争碁は第1局が有名である。このとき道知は体調不良で、とても対局できる状態ではなかったらしい。序盤から冴えがなく、そこを仙角につかれて劣勢に陥ってしまう。後見の因碩は途中で見ていられなくなって席を立ったという。しかし終盤戦に入ると様相が一変する。道知は好手筋を連発し、鬼気迫る追い込みを見せる。(とくに黒125、127は後世に有名な妙手となった)そしてついに1目抜き去る。時間無制限の古碁には珍しい終盤の逆転劇だった。 悪条件の第1局でも負けなかったことは道知の地力の証明であり、争碁の行く末を示したものだった。第2局は圧勝。以下は騎虎の勢で仙角を圧倒する。 この争碁期間の途中で、因碩は道知と十番碁を打っている。道知の後見を解くかどうかの腕試しだったのだろう。結果は道知定先で3勝6敗1ジゴ。道知いまだしの感はぬぐえない。結局後見が解けるのはその後1年余り掛かったのだが、その間にもう7局師弟戦が行なわれたという話があり、その棋譜が伝わっていないのは残念なことである。 その後、因碩は道策との約を違えて碁所に就き、本因坊家と井上家の不和の原因を作ったとされる。しかし、道知は師匠でもある因碩にあえてはむかうこともなかった。 因碩の死後は、当然道知の独壇場になった。名人になるのは時間の問題ということになるのだが、他家三家はしらばっくれる。そのとき道知が「道知一人は実際力量の有らん限り対局すべし」(本気を出しちゃうぞという意味)と凄みを利かせたのは有名な話。それで結局名人になれた。 しかし、道知にとって幸せだったのは、飛翔のきっかけとなった仙角との争碁や、師名人因碩との十番碁を打っていた時期だったのではないか。「道知一人は実際力量の有らん限り対局すべし」という捨て台詞が示すように、このときの御城碁は事前協議で勝敗を決めることが多く、形骸化していた。道知の御城碁は先番5目勝ち、白番は2,3目負けと判を押したような成績である。もはや道知には敵手も、腕を振るう舞台もなかった。 前述のように、道知の御城碁の成績は八百長であることがまざまざと分るようなものだ。あまりにも結果をそろえすぎている。また策雲因碩との御城碁でジゴになったものがあるのだが、それは先代道策と高弟本碩の碁(黒番1目勝ち)を作り変えたもので、後世から見ればその作為は明らかだ。 こうしたことから道知の悲しみ、怒りを感じざるを得ない。持てる力を発揮できない無念を、後世に伝えたいと思ったのだろう。自分の碁はこんなものではないという孤高の名人の咆哮を聞く思いがする。 道知は38歳で短い生涯を閉じた。その死は、江戸本因坊家の前期黄金期の終焉を意味するもだと思う。算砂から、算悦、道悦、道策、道知と名人、もしくはそれに匹敵する名手を輩出し江戸の囲碁界を引っ張った本因坊家は、ここから暗黒時代にはいる。それは同時に、御城碁が形骸化し活気を失っていく江戸囲碁界の暗黒時代でもあった。