聖なる泉の少女 追記
天皇即位正殿の儀のさなかですが、映画の覚書。ちなみにこの儀式に(すべてではないとはいえ) 中継のカメラが入っていることが意外。そういう文明から遠ざかる方が厳粛さが保たれるような気がするのは古い感覚か。だって格式ある神社の神事にもそうそうカメラは入らないイメージがある。あと各局上皇様のことになにも触れないのはなぜ??? 「聖なる泉の少女」 先日観てきました。 冒頭、川の流れの長回し(というのかな?)に衝撃。 苦痛を覚える位同じ画(え)を見せられる。 『しんどい』と、同じと思った水流にいつの間にか・・・。 予告だったか、公式サイトで知ったあらすじのある一部を示唆する変化。 情報がなかったら気づかなかったかもしれない。そこもだけれど、観終わって、この話はどこの国の話なのかが全くわからなかった。そういう親切が一切排除されている。それは当たり前と言えば当たり前。 遠い異国の私には説明不十分でも当の国の方にとってはわかりきっていることっていくらでもある。そう思うと沢山の映画、特に外国のシチュエーションにスンナリ入り込めた これまでの映画ってとても親切だったんだなーと妙な感心を覚えた。ひき込まれたチラシの写真のたらいの白い魚は予想に反してすぐに登場した。(人面魚みたい) 主人公ナメに愛おしそうに撫でられる。まるで猫の背中をなでるように。ああいう魚は水から出たらバシャバシャする姿しか見たことがないから驚いた。この白い魚くん(と言ったらバチがあたりそうw)はとても重要な存在。 特にラストに向けて。ジョージア(グルジア)に太古から語り継がれた物語を体現する山奥の父娘。 貧しそうで時が止まっていそうに見える村の様子に対して村を離れて暮らしている娘の兄弟達の生活は近代化していて村の様子との間に異次元感が漂う。 とはいえ、家から離れた兄弟が聖水を届けに来た父が帰ったあとコップの底に残った聖水を手に取ってひたいにつける仕草(それはたぶん幼少からずっと繰り返されてきた仕草)をしてしまうところに残っている紛れもない家族の証。村を離れていった兄達の代わりに跡を継ぐことを求められている娘ナメ。伝承されている儀式は厳かで、描かれる日常の景色はある時は日本画のよう、ある時はミレーの絵画のように美しい。ナメは自分の気持ちを出せないまま儀式をこなしていく。 伝承されている物語、ナメの目覚め、美しい情景にしのびよる近代化、 観終わって焦点がしぼりきれなかった。 長回しについていけず記憶が途切れた、か・・・も。ナメを演じた女優さんの彫刻のような美しさ(裸身も)と魚くんの(動かないという)名演技?が印象に残った。エンドロールの横に「魚は元気に元の場所へ帰りました」という意味のテロップが。このテロップに、映画が美しく描いた自然へのリスペクトを感じました。