フェアトレードに支援を思う
今日は小禄の「骨盤クラス」。(正式な名称は別にありますが、とりあえずこの呼び名が一番的を射ている)試行錯誤の甲斐あって少しずつ常連の生徒さんも増えてきて嬉しい。クラス後に生徒さんがご自分の身体の悩みについて自発的に質問してきてくださるのだけどその質問への対応の中から、学ばせてもらうこともかなり多い。☆☆☆クラス後、今週末の保育園バザーでのフェアトレード商品取り扱いに関する説明を受けるためまたも佐敷にあるカフェ風の里へ。美人店長さんのお話を聞き、自分の判断に基づいて選択する賢い消費者になることと、支援するということの本当の意味について、考えさせられる。自分のたずさわっている産後女性に対する活動にからめて、学ぶことが多かった。今、世の中に出回っている安価で大量の商品のほとんどは、発展途上国で、女性や子どもが不正な条件での長時間労働によって生産しているもの。衣服でいえば、G○Pやユニ○ロ、それからいわゆるブランド品も、生産の担い手はこうした貧しい国の10代~20代の女性だという。ファッション業界には流行がつきもの。その流行にあわせて短時間で大量の商品を作るために、労働者はかなり過酷な条件で働かされるらしく、とある記事では、G○Pの中国の工場で、工場員を働かせ続けるために、ダウンした工員に覚せい剤を打つこともある、と書かれてありびっくり。私G○Pわりと好きでジーンズよく買ってたんだけども。(沖縄にはないようだ)こうした工場員たちは正等な対価を受け取っておらず、健康を害して働きづめても、貧困からは免れるすべはない。他にも、コットンとオーガニックコットンの違いなども教えていただく。(通常のコットンは、大農園で作られ、ヘリで大量の農薬を撒かれる。そして収穫時には、収穫に邪魔な葉っぱを取り除くため、なんと枯葉剤が使われるのだとか)けれども、こういう知識を授けてくれた上で、店長さんがおっしゃったのは、「だからフェアトレード商品ばかり買わなきゃ!」っと狭い視点になることではなく、まずは現実を知って、その情報にもとづいて、買い物のときに自分で判断し、自分で選択できる、リスクテイクできる、賢い消費者になることが大事。自分がなんとなく買っているもの、それを作った人がいる、という当たり前の事実に思いをはせるだけでも、大きな変化のきっかけになるだろう。3000円のコットンTシャツと5500円のオーガニックコットンTシャツを比べたときに、安いという理由だけでコットンTシャツに飛びつくのではなく、その値段の違いを生み出した背景を理解し、その上で自分にとってベストな選択ができるのが望ましい。TVCMやファッション雑誌の広告に乗せられて、そのまま考えもなくトレンドを追いかけるだけになるのではなく、一人ひとりの消費者が、まずは自分の買おうとしているものが商品棚に並ぶまでの歴史を思い、そうした情報のもと、今の自分にふさわしい選択を自分の判断のもとに行うことで、経済の流れも変わり、時代の潮流も変わるのかもしれない。人生はリスクテイクの積み重ね。そしてリスクテイキングは、まずは現状を「認識する」ことから始まる。のだなぁーと思う。☆☆☆フェアトレードの目的は、貧しい国の人たちの「自立支援」。モノやお金を一方的に援助するのではなく、その地域の人たちが、自分たちがすでに持っている伝統技術を生かして、手作業による商品生産を行うことにより、それに対する正当な対価を得るようなシステムを作る。店長さんいわく、一方的な物資の援助だと、その地域の人たちの自尊心を奪い、依存の状態を作り上げてしまう。支援している側が「支援してやってるんだ!」というおごりの気持ち、下を見るような気持ちでいては、本当に支援される側のためになる支援にはならない。本当の支援とは何か、というのは奥深い問題。ネパールで裸足で走っていた子どもに靴を送った先進国のグループがあったが、靴というものはすぐにサイズが合わなくなるし、また、それまで裸足で大丈夫だったところに、靴を履くという新たな習慣ができてしまうことで裸足の状態に戻ることが苦痛になってしまう。子育て支援という業界の端っこに身をおくものとして、この話はこう聞こえた。モノ(茶菓子とか笑)やハコを用意すればいいというものではない。同じように「茶話会」を催すのであっても、開催者が、上から下を見るような気持ちで「大変なお母さんたちを支援してあげている」のと、対等な立場で、支援の対象に共感と尊敬のまなざしを持って接しているのとでは全く違う場が出来上がるはずだ。やみくもに「大変な現代のお母さん像」を作り、上から下への支援を行って自己満足するのではなく、本当にそれが長期的な目でみての「支援」になっているのか、振り返ることが必要だと思う。自尊心を奪う支援ではなく、自尊心を高め、自立を促す支援。見当外れの「靴」を送りつけて満足しているようではいけないと、自戒をこめて思う。