ポッキーの日にゴー宣道場へ行った事に就いて。
丁度この日に乙の披露宴が行われてたようだが、こちらの方へ応募していたので出る事にした。会場は八重洲口から出て徒歩10分とあったが、本当に徒歩10分掛かるとは思わなかった。いや、早足で歩かなければその時間にはならないな。その日も遅れてしまった。10分くらいだった。またも愕然。もう始まっていて、会場は満員ではないがかなりの人がいた。サブカルヒーローと言うタイトルなので中年程度の男ばかりで犇めいていた。自分は奥の席に座ることになったが、自分から見て左前方には嘗て銭金にも出ていた月刊中澤健が座っていた。おおっ!サンドイッチマンの如く何かしらの広告?を挟ませていた。そんな事はどうでもよくて、話しかければよかったなあと思う。また参加するかな? 女率はすくねーなー。泉美木蘭師範代?になるのかな?泉美木蘭はアンパンマンを比較してヒーローのあり方を述べていた。これも我が意を得たり。切通理作は当初アンパンマンをいけ好かねえ野郎だと思っていたり。ここに来ているメンバーは師範だけでなく門弟や門徒迄もがひねくれていたようだ。 詳細を述べることは出来ない。纏めるのが難しいのだ。感想を紙に書いても纏まらなかった。 質問を設けてくれたので手を挙げて発言をしてみた。ここで判ったことは、アイドルとヒーローは違うということ。今迄自分が投影して来たのは、ヒーローではなくアイドルであると。自分の見たくないものを偏見の眼差しで見るのがアイドルということらしい。 ヒーローは影を背負うもの、苦悩を知ること、バットマンから話が広がるのだが、これで纏まったようだ。北斗の拳のケンシロウは苦悩を一切感じられないんだよなあ。自分の良心の呵責はない。人殺しに躊躇ない。 相手は人殺しの上に悪党だから。弱き者を守る為に立ち向かうのがケンシロウ。自ら地獄行きだと確信している、そして墓もいらぬという。 苦悩よりも人々の悲しみを拾い上げる英雄じゃないかと思う。背中で語る。 現実問題として、政治家には皆が支えるヒーローとなって欲しいわけだが、どうもこれは…。 政治家にはアイドルになって欲しくないわけだ。今の安倍晋三やら片山さつきやらは現実の見たくないものを蓋されたアイドルに成り下がっている。そういうことなのだろう。 アメリカは特攻隊員へのコンプレックスを抱いており、映画にも自己犠牲の塊のようなものが出て来ているようだ。ターミネーター2とかもそう。マトリックスもそうじゃないか?ネオは英雄をモーフィアス達が生涯賭けて待ち侘びているんだよなあ。 英雄とは自己犠牲、即ちそれである。快傑ハリマオは大東亜戦争肯定論の子供向け番組だったらしい。これは凄いぞ。コードギアスよりも半世紀前に出来てたのだ! 今のサブカルヒーロー作品は現実から遊離させて且つ現実を皮肉らないと出来ないようだ。月光仮面はリアリティあるように作ったが作風にケチ付けられて打ち切られたそうな。 世界を救う英雄は…。 ゴー宣も漫画だけど、英雄譚だよなあ。古くは記紀の日本武尊の話や義経の話とか英雄譚だよなあ。 相手を悪と決めて立ち向かうのは、正しく当てはまるのだが、価値相対主義にはそれが受け入れられない。正義も悪もないんじゃーい。 かくして価値は融解していく。これが日本の現実。 というか、現実にはメロリンQがヒーローになりうるのだがどうだろうか。この人は道化だが、未来の日本の子供達の為に奮闘している。悪罵も投げつけられる。相手にとって敵だからだ。それでも戦う。それがヒーローである。葛藤もあるだろうが、そこは見せない。ケンシロウのようだ。 もう一人、ヲタクの☆、英雄が居るのだが彼もまた自己犠牲の塊だ。メロリンQも収入は減ったという。しかし未来の為にそれは構わないと言う。一般人には到底出来ない。 それでも一般人はこの人に付いて行っても大丈夫だろうと夢を託す。東のエデンのノーブリスオブリージュみたいだな。貴方様がこの国の救世主たらんことを。