囲棋新報合本
突然だが、”無性に神保町に行きたくなった” のである。 出雲屋さん紹介の「有美のブログ」の秀甫の記事を読んだのが、きっかけだ。とはいうものの、私が十年くらい前に読んだ、秀行先生(『勝負と芸』)、坂田先生(『勝つ』)、呉先生(『以文会友』)の本の中に、各先生がかなりの思い入れを持って書かれていたのが、村瀬秀甫だったので、昔の棋士のなかで一番気になる存在だったという伏線はあった。だから、古碁で並べた碁の数では、秀甫が一番多い。といっても、『秀甫』(日本囲碁体系)と、『黎明秀甫』(古典名局選集)、それに『古典全集』(囲碁デ-タハウス)から、対秀和、対秀策、対秀栄をつまんだ程度だが。ただ、どれも3回は並べ替えしているので、古碁では最も多く並べた棋士である。さて、なぜ神保町か、といえば、「方円社」があったからである。呉先生の父が方円社に出入りしていたり、周辺の本屋で棋書を買いあさり、本国へ持ち帰ったそうで、清源少年は、その中にあった、世界初の囲碁雑誌「囲棋新報」を並べて勉強したという。その『囲碁新報』は、分厚い合本で、左右の手に持ち替えながら並べたとか、本が重くて、指が曲がったとか、そういう記述もあるわけで(『中の精神』)。方円社について、wikiや、それのもとになっているとおぼしき、日本囲碁体系の林裕氏の記述を見ると、神保町界隈を幾度か転居したようだ。これは、古地図の世界で、本因坊家や方円社、溜池、市ヶ谷など、ぜひ、「ブラタモリ」で取り上げて欲しい。最近、「タモリ倶楽部」でタモリ氏も囲碁に触れたのだから、望みなしともいえないだろう。「方円社跡」のようなものはないのだろうか。さて、方円社の例会の棋譜に秀甫が講評をつけた雑誌「囲棋新報」は、修業時代の秀行先生が、徹底的に考えながら並べたというものだが、ヤフオクなどでも、ほとんど見かけないが、それが、webにあった。『囲棋新報』合本上巻 http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/861029中巻 http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/861030下巻 http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/861031こういう作業は、目立たないが、立派なことと思う。江戸や明治の碁を並べたいという人は、世界中にいるだろうから、「明治碁譜」、「御城碁譜」なども、ぜひ載せていただきたい。それにしても、瀬越先生、これらの打碁集といい、手筋事典といい、後の世の役に立つ仕事していらっしゃいますね。