戻る場所
イティハーサなどを読んでいるからか、ちょっと「意味」などというものについて考えてしまった。つまり、「戻る場所」がないと人間はしんどいのではないか…と。だから、何かに所属し、家庭を持ち…ということを延々と繰り返すのではなかろうか?しかし、思い出したのである。私は真言宗徒なので、唯一仏という概念がある。それは大日如来である。ちなみに、うちの旦那寺は、なんで真言宗のお寺なのにご本尊が大日如来ではないのだ!?とか思うかたもいらっしゃるかと思うが、それはそれでよろしいのである。一は全、全は一だからである。(これについては長くなるので、これ以上説明しない。知りたい方は調べるか、個人的に私に聞いてください)閑話休題。ある高野山のお坊さんが丹波哲郎さんと対談しているのを、YouTubeでみたことがあるのだが、私はそのお話をどうしても忘れることができない。後半にそのお坊さんが出演しています↓http://www.youtube.com/watch?v=K55KorVxukg&feature=relatedつまり、人間はみな大日如来のところからやってくるのだそうだ。そのときに、大日如来さまは魂(?)に着物を着せてくれる。人間はその着物(外見とかいろいろ)をまとって、修行するためにこの世に生まれてくるわけである。大日如来様の着せてくれた着物であっても、すり切れたりするそうだ。着物は一枚しかないから、人間はその着物をずっと着ながらこの世で生活するわけだけれど、そのうち長いこと着ていれば、ぼろぼろになってくる。そうなったとき、「そんなにまで着物がぼろぼろになったから、戻っておいで」と大日如来さまが呼んでくれるのだそうだ。大日如来さまのもとに戻るというのは、すなわち「死」である。だから、せっかく着せてもらった着物を自分で破いたり(自殺)、人の着物を破いたり(殺人など)することはいけないことなわけである。仏教は宗教ではなく哲学だという方がいるが、こういう話を聞くとたいへん合理的に感じるし、哲学的ではあると思う。少なくとも私には戻る場所がある。私はそのことに感謝するわけである。実際のところ、たまに観音さまをお見かけすることはあるし、ごくまれに諸仏が家にいらっしゃることもある。しかし、大日如来さまというのは存在が大きすぎてわたしの観念ではとらえきれないし、また「あ、いらっしゃるな」と思うことも実は哀しい哉それはない。ただ、ときおり包まれていると感じることはある。この「包まれている」というのも正確な表現ではなく、それをあらわす適切な表現を私は知らない。ただ、まだ、私の着物はぼろぼろになってはいない……