能島村上氏の本拠―大島(愛媛県今治市宮窪町)
戦国時代、「日本最大の海賊」と呼ばれた村上武吉。その本拠は、芸予諸島のほぼ中央に位置する周囲800メートルほどの能島になります。島全体が城として築かれ、早い潮流と上陸地点の少なさから、高い防禦性を誇っていました。しかし日常生活をおこなう上で欠かすことのできない飲料水は、300メートルほど対岸の大島に頼っていました。大島には、集落も形成され、寺や墓も大島にありました。その大島に、いまも土地の人が「コウガ屋敷」と呼ぶ一画があります(宮窪小学校の後方一帯、現在の海岸線より約500メートル内陸)。コウガの意味はわかりませんが、村上氏ゆかりの場所と伝えられ、2004年の発掘調査でも、16世紀後半から17世紀初頭にかけての瓦などが大量に出土しています(『瀬戸内海西部閉鎖海域における海民文化形成史の考古学的研究1』)。コウガ屋敷の後方(西側)には城跡もあり、その南側には「カジヤダ」(鍛冶屋田)の地名も残ります。また元禄2年(1689)の検地帳には、「ばんじよ給」(番匠給)の地名も記載され(『しまなみ水軍浪漫のみち文化財報告書』)、職人集団の存在をうかがわせます。また、カジヤダの近く、コウガ屋敷の南西にある証明寺跡には、14世紀中頃とみられる宝篋印塔が残り、北東の海南寺の墓地にある15世紀頃のものとみられる宝篋印塔も、もとは証明寺にあったものを移したものと言われています(移転に関しては『宮窪町誌』298頁による)。こうした点からすると、「コウガ屋敷」から「城山」一帯に、領主の空間がひろがり、その南西に信仰の空間が存在したのではないでしょうか。能島村上氏の日常の生活空間も、能島ではなく、対岸の大島にあった可能性が高いと考えられます。証明寺跡より、城跡(画面左側の家が建つあたりに見える小丘陵)・コウガ屋敷(画面右端の茶色い屋根の建物から道路付近)・海南寺(コウガ屋敷の奥、右の電柱のすぐ右脇に見える屋根)・瀬戸内海をのぞむ