高山城下の石塔
小早川の領域には、たいへん多くの宝篋印塔や五輪塔が残存しています。このうちの宝篋印塔は小早川家の当主や一族、五輪塔はその家臣クラスのものが建てた供養塔、あるいは墓碑と考えられます。ところが、小早川の本拠となる高山城下には、なぜか、宝篋印塔や五輪塔がほとんどありません。それは、なぜなのでしょうか。小早川家は、氏寺である米山寺に歴代の供養塔があるため、本拠には建てなかったと考えることも可能です。しかし、おなじ小早川でも、竹原の小早川家の場合、城下には、氏寺の法浄寺の跡地以外にも、多数の宝篋印塔・五輪塔が散在しています。もしかしたら、いまだ山の中に埋もれているのかもしれませんが、それにしても少なすぎます。あるいは、小早川隆景が三原に拠点を移したとき、高山城下にあった寺も三原に移転していますから、そのとき石塔類も一緒に移したのかもしれません。しかし、宝篋印塔だけではなく、五輪塔まで移したとなると、かなりの数に及んだはずです。また、三原に移転した竹原の法浄寺の場合、跡地には多数の石塔が残されています。このため、石塔まで移転したとは考えにくい点もあります。結局、高山城下になぜ石塔が少ないのか、この問題は、いまだに解けない大きな謎なのです。そんななか、高山城下に残る数少ない石塔のひとつがこの石塔です。高山城下の西側、新幹線の線路近くに鎮座する荒神さまの近く(M氏宅脇)にあり、「片山家祖先足助四郎三郎」の墓と言われています。もちろん「足助」の墓という話は、後世につくられた伝承にすぎません。 下から、宝篋印塔の基礎らしき石材、五輪塔の地輪らしき石材、五輪塔の水輪、宝篋印塔の笠、五輪塔の空風輪を重ねた、いわゆる寄せ集めの石塔で、各部分はセメントで接合されています。このうち基礎は、幅が37.0センチあり、大きさだけを見れば、小早川一族クラスの基礎になりますが、セメントを塗り固めているため、反花や格狭間が確認できず、詳細はわかりません。笠は、上6段下2段式で、全体の高さは29.5センチ、軒幅は33.9センチとなり、その比率は0.87となります。また、隅飾の下端幅と軒幅の比率は0.32、笠の上部最上段と下部最下段の比率は0.7になります。こうした各部の比率や、各段の側面のうち、1・2段目を内側に切ること、隅飾の下の弧をほぼ直角に造ることなどからすると、16世紀後半以降の笠とみてよいでしょう。この場所は、高山城に登る道のひとつがあったと言われています。付近には、寺院か、墓地があったのでしょうか。おそらくこの石塔は、このあたりに散在していた宝篋印塔や五輪塔の残欠を重ねてひとつの「墓」として作りあげたもので、まだ周囲の山のなかには石塔の残欠が埋もれているのかもしれません。高山城周辺では、このほかにも、先日紹介した具住神社や高山城内において宝篋印塔の残欠を確認しています。今後、より精査な調査を実施して所在確認を進めていく予定です。地元のかたからの新たな情報もお待ちしています。石塔データ〔宝篋印塔の基礎〕全体の高さ コンクリートで接合しているため計測不可側面 現状の高さは16.8センチ 幅37.0センチ〔五輪塔の地輪らしき石材〕高さ18.8センチ 幅 上端28.0センチ 下端 摩耗のため測定不可〔五輪塔水輪〕高さ16.7センチ 直径25.8センチ〔宝篋印塔の笠〕形状 上6段下2段全体の高さ29.5センチ軒幅 正面33.6センチ 左側面32.8センチ 右側面33.9センチ 軒厚3.7センチ上部各段の高さ 上から 2.9、2.6、2.6、2.7、2.6、2.9センチ最上段の側面幅 上端15.7センチ 下端15.9センチ隅飾 高さ13.0センチ 下端幅10.6センチ 輪郭幅1.2センチ 左右の間隔11.1センチ軒下 上段 高さ3.2センチ 幅 上端27.8センチ 下端27.8センチ 下段 高さ2.8センチ 幅 上端22.6センチ 下端22.3センチ