あれができないから これができないのじゃなく
フェミニズムについては 録りためた年末年始のいろいろな番組を見るのに忙しくまた それらから感じることも多くゆっくり まとめたいと思う。本日は 7日 Nスぺ「認知症の母と脳科学者の私」を見た。お母様は 私と同年代であり 自分もこのところ物忘れが多いので 他人ごとでなかった。いや 夫も それなりなので 夫婦で補いながら生活している感じだ。で番組で お母さまが 7年前に認知症と診断されてからの話なのだがお母様ご自身が なんだかわからない できない と家族が期待した応対ができないことに 恥ずかしさやくやしさ 迷惑をかけていてどうしよう という気持ちなのだということは よくわかった。そして あいまいな質問や 好きなようにしてみて あれはどう?とかについて答えられないのは息子にもあるので よくわかった。お芋は好き?と聞くとわからないけれど里芋で良く料理作ってくれたね の 里芋には反応できる。YES, NO や 具体的な名前で問えば 具体的に答えられる。娘を思う本質の感情は ご自身の名前すら思い出せないけれど この人が娘かどうかではなく、笑いかければ優しい笑顔で答えてくれるなにか脳の器質的不具合があったり障害があっても一般的な健常者の常識だけでぁ―――能力が無くなってきたんだ 言っても無駄だ きっと理解できない と判断するのは早計だとわかる。昔のお母さんではないと 悲しむのではなく 根源的な皮膚感、こちら側の受け入れる気持ちには呼応できるはずなので もうそれで一緒に生きればいいのかと思う。私の部屋の壁に向かって廊下側からナイフを突き立てていた息子家を売却するときには その跡をみながらリフォーム屋さんに見せたくないとそこは 私が頑張って壁紙を張り替えた。まったく私に敵対心しかなかった息子が この数年の私の変わりようで 買い物にも一緒に初めて行ったし その後も 屈託なく 色々話しかけてくるし今日は「髪 カットしてくれる?」と 軽く聞いてきたので「そうだね 伸びたもんね」と 美容師顔負け?の腕で カットして イケメンにしてあげた”自分のお金で理容店に行けばッ?”的な 大人なんだからとか 自立願いの突き放しする?的な感情もなくなってたからすぐに 理容代倹約の為だわーと やってあげれた髪には触れるし サービスで頭のマッサージまでつけて スキンシップの一種だね目をつぶって してあげるままに任せきって リラックスしていたこれはね 普通ではないんだよすごいことなのやっとここまできたのこうして 安心して居場所があって 責める親でなくてこれが一回でも確信になったらきっと一人になっても 孤独感を感じずに なんとか乗り切ってくれないだろうかどこまでも一緒には生きていけないので 甘やかしてるという意見もあるのだろうが今は 揺らいでいた生きる根本を 安心感と居場所で満たして一人になってもそれを持ち続けていけたらと思う