時系列で考えた戦後(更新)覚え
今年の3月20日に 自分の記憶の為にも書いた 映像の世紀についての記事だったが今夜の8月21日 また映像の世紀バタフライエフェクト「GHQの6年8カ月」マッカーサーの野望と挫折」が そのおさらいのようでもあり 新しい話もあって 3月の日記を 更新しておく。マッカーサーが為したことでは当初は民主化として支援した労働組合に対して のことや 組合が反体制化していくことの恐れでの急な逆コース政策のことや 朝鮮戦争の決着に核を望んだことなど 理解できないことも多いけれど 当時の日本人 政治家だけでは成しえなかった日本の民主化ではあったのかと思えた。前回の映像の世紀のおさらいのようであり やはり一度まとめているので頭に入りやすかった。ただ 新しく気づいた内容があり それを書き留めておきたい。実際に相手の国(今回は日本)や国民と深く対峙したことで マッカーサーであっても日本的な文化や人間性から、気づくこともあったのではないかと思った。よほど日本の一億玉砕的な 芯からの軍事的で挙国一致で強い天皇制を持つ国民なんだろうという恐れと興味とを持って占領にあたったマッカーサーであったんだろうと思った。 強い権力を持っていたから 数か国による分割統治もされずにすんだのかもしれない。昭和21年4月5日の 連合国対日理事会でマッカサーは 占領と統治がうまくいっていると誇らしげに語ったとのことだ「新憲法に掲げられた戦争放棄を 全世界の人々が 真剣に検討されるよう勧めたい。 この考え方こそ世界の進むべきただ一つの道である。」だんだんと本国との齟齬が出始め トルーマン大統領から解任されるのだがそれによる帰国の日の 坂口安吾のことばについて 昭和26年4月16日の読売新聞の記事がある。・坂口安吾の言葉より「妙な話だが 日本の政治家が日本のために はかるよりも 彼が日本のために はかる方が 概ね公正無私で 日本人に利益をもたらすものであったことは 一考の必要があるでしょう。」前回書いた アメリカ議会でのマッカーサーの退任演説 にあった追加も書き留めたい「・・戦後日本国民は 近代史に記録された中では 最も大きな改革を体験してきました。 私は占領軍の米軍4個師団を (日本の基地から)朝鮮戦争に送り込みましたが 日本に生じる”力の空白”については 何の不安もありませんでした。(警察予備隊は作ったが) 結果はまさに私が確信していた通りでした。 日本ほど穏やかで秩序のある 勤勉な国を知りません。 また 日本ほど将来 人類の進歩に貢献することが期待できる国もないでしょう。」何を持ってそう感じたのでしょうか。そして そう言われた私たち日本人は どう貢献すればいいのでしょうか・・・?1943年の アメリカアラスカ準州のアッツ島上陸での戦いからの玉砕(まだ大半の遺骨は帰っていない) 兵器や食料の枯渇の中 近代兵器で攻めてくるアメリカ軍へ銃剣で突撃し 玉砕したという。それからはうまくいかない戦いは 玉砕か放置の餓死(戦死230万の6~7割は餓死) 本当に何とかならなかったものか。そんな無謀な軍隊の指揮に 日本精神で必死で戦った日本兵は ”穏やかで秩序ある勤勉な” というならば 次世代は その国民性をどう考えて世界に貢献していけばいいのでしょう。*******************************************************<2023年3月20日の日記>「NHK映像の世紀 バタフライエフェクト 朝鮮戦争 そして核はばらまかれた」冒頭の語りで ”私たちはなぜこんな世界に住んでいるのか 映像の世紀 バタフライエフェクト 核の野望に取りつかれた権力者たちの 物語である。” とある今年2月23日に録画していたものを 見て戦後から朝鮮戦争 核の拡散への流れが少しつかめたので 覚えで書き留めておく**************************************1945年8月 ソ連軍は 35年に及ぶ日本の支配下にあった朝鮮北部へ進軍した1945年9月 アメリカ軍が 同様に朝鮮南部に進軍した。 当地の責任者は マッカーサーだ こうしてアメリカが提案した北緯38度線を境とした 分割統治が始まった。 当初は 市民の行きかいもあったし、日ソの兵たちも友好的であった。 日本という 共通の敵を倒した同盟国意識であった。1948年8月15日 マッカーサーは アメリカに亡命していた独立活動家 李承晩(イ・スンマン)を支援し 韓国大統領となった李承晩は、大韓民国独立式典を マッカーサーも招いて行った 李承晩は韓国内に潜む 共産主義者と思われる者たちを弾圧したり処刑した。 武力によって朝鮮半島を統一する野望を持っていた。 北ではスターリンのおぜん立てにより 一人の抗日ゲリラであった金日成が指導者となった 金日成は 中国共産党の一員となったあとソ連軍の一員ともなり スターリンに忠誠を誓った。 朝鮮統一の野望のため 1949年モスクワを訪れ ソ連製の兵器を大量に受けることと その見返りに かつて日本軍が開発したウラン鉱山の原爆原料ウランを提供する話がまとまった ⇒それにより1949年8月29日 ウランを手に入れたソ連が ソ連初の核実験を成功させた。1950年6月25日 北朝鮮軍が 南へ侵攻し 朝鮮戦争が始まった。 北朝鮮軍の装備は ソ連軍から大量に提供受けたものであったが、 韓国軍の装備は 第2次世界大戦の中古品だった1950年6月25日 国連安全保障理事会が招集され 国連軍を派遣し38度線まで押し返すことを決議した。 常任理事国のソ連は出席をボイコットしていて 拒否権行使はできなっかった。1950年7月13日 日本のGHQにいたマッカーサーが 国連軍の責任者として任命された。 国連軍の中心は 在日米軍であり 前線基地であった。 が 米軍は北朝鮮軍に歯が立たないで 一カ月で南端の釜山まで追い詰められた。 米軍は原爆を手にしてからは 軍事費を減らし訓練もなおざり 士気も低くなっていた。 米軍が朝鮮戦争で日本国内の占領統治が手薄になり 自衛隊の前身である警察予備隊を作った。 憲法9条の規定があるにもかかわらず 緊急性があるとのことで国会の審議も無かった。1950年9月15日 マッカーサーは奇襲として 仁川港からの上陸作戦を決行した。1950年9月28日 国連軍はソウルを 奪還した。 マッカーサーは 38度線を越え北朝鮮軍を撃滅する野望により さらに進軍をつづけた。1950年10月14日 北朝鮮東部の強制収容所を解放したとき その中に文鮮明がいたという 1950年10月13日 マッカーサーは 日本を反共の砦 とするために 1万人に及ぶ戦争協力者の公職追放を解除した。 1952年4月 永久戦犯容疑者として 巣鴨プリズンに収監されていた岸信介も 政界に復帰した。 その後 反共産主義の政治勢力を築いていく こうして 国際勝共連合(統一教会)を率いることになる文鮮明が 勢力を拡大し 日本においても 勝共連合を設立することにし その発起人の一人が岸信介 ということだ。1950年11月 厳寒の北朝鮮北部で苦戦する米軍に マッカーサーはクリスマスまでに国に帰れると約束していたが 対岸の鴨緑江では38万人もの中国の義勇軍が待ち受けていた。 前年建国を果たした毛沢東は「アメリカによるアジアの侵略を中国はだまっていない。」と宣言する 戦場へは 国民党の敗残兵を送ればいいと考えてもいた。 その頃の毛沢東の言葉として 「原爆など恐れることはない 中国には何億人も人間がいる。一千万人や二千万人の死は 恐れるようなことではない。 義勇軍の出動は変えてはならず 予定通り鴨緑江を渡れ。」1950年12月24日 中国軍に38度線まで退却させられたマッカーサーは 起死回生を狙い、 日本からワシントンへ送った無線は 「・・・ハバロフスク、北京、大連、サハリン、ナホトカなど 中国やソ連の都市に向けた26発の原爆を要求する。」であった。トルーマン大統領は それに応じず 翌年4月マッカーサーを解任した。トルーマン大統領の言葉「アメリカは戦争を朝鮮半島に限定すべきだ。第三次世界大戦を避けるためである。」まだ続いていた戦争で 日本は朝鮮特需で空前の好景気になっていた。兵器や照明弾 迫撃砲などの大量生産なども行われていた。戦後破産直前だったトヨタ自動車は 米軍や警察予備隊からの軍用車の注文殺到で 息を吹き返した。北朝鮮へは 東京や沖縄などから出撃した戦闘機が 東京大空襲と同じような 町への大規模な空襲を行った。犠牲者は東京大空襲の10倍 100万人に及んだ。トルーマン大統領は マッカーサーを解任したとして国民から支持を失い 代わって共和党のアイゼンハワー大統領が 朝鮮戦争停戦を公約に就任した。1952年11月1日 アメリカは原爆よりはるかに強力な 水爆実験に成功した。 威力は 広島原爆の650個分だった。 それに対し毛沢東は 中国に原爆が必要だと強く主張することになる1953年2月11日 国家安全保障会議にて アイゼンハワー大統領は 「共産側が軍隊の立て直しに使っている地域に対して 核兵器の使用を考えるべきである。」1953年3月5日 スターリンが死去する それによりソ連から休戦の声が高まった。1953年7月27日 板門店にて アメリカと北朝鮮の軍人が休戦協定の調印が行なった。 平壌では 金日成も調印した。 朝鮮戦争での犠牲者は アメリカ軍 5万人 中国義勇軍 100万人 韓国人 130万人 北朝鮮人 250万人 とされる1953年7月28日 金日成の演説 「われわれはアメリカ帝国主義者の企てを 粉砕し敗北させた。 われわれの平和的な都市と農村を 焼野原と化した米国の空軍基地が日本にあり また日本が米軍の兵器廠、後方基地であったことも 良く知っている。 停戦協定の締結は 砲火の停止をいみするものではない。」 (ということは今でも戦争中だと言っているのか・・・・? 安倍さんじゃないけれど 世襲の意地 自己実現が絡んでくると難しいのかと思う。)1953年8月12日 ソ連が アメリカに続き 水爆実験を行った。1964年10月16日 中国が 東京オリンピックの期間中に 初の核実験を行った。1991年 ソ連崩壊1994年4月 北朝鮮も 旧ソ連ウクライナの技術者を招き 核を手に入れた。2022年11月18日 北朝鮮は 公式に核保有国であると宣言した。 朝鮮戦争開戦時に 核保有国は 米ソの2か国で 合わせて374発だった。 現在では 世界9か国の 12,705発であるという1951年4月19日 マッカーサーの退任演説 (アメリカ議会にて)「私は いま生きている誰よりも戦争については 知っています。 私にとってこれほど嫌悪すべきものは ほかにありません。 しかし いったん戦争がわれわれに押し付けられれば これを 迅速に終わらせるためには 使えるすべての手段を使う以外に選択肢はありません。 ・・”老兵は死なず ただ消え去るのみ”・・」**************************************そのあと ETV特集の「ソフィヤ 百年の記憶」という番組でウクライナの 何度も侵略されしいたげられ続けてきたソフィヤさんの家系百年の記憶を 知ったが、初めはほんの数人の 偏った独裁の考えによって 何百万人の命が 犠牲になるというそして たったの市民は どちらの市民も翻弄されてしまうという怖さを 知った。大江健三郎氏が 先日亡くなったが反戦の運動も多くされていて ある演説で「私たちには何も力がありませんが あるとしたら市民の力なのです こういった市民のデモなのです。」というような言葉が頭に残っている。翻弄されるがままでは いつまでも止まらないから やはり言うべき時には いろいろな意見を表すのが大切だと思う。