第一回津島遺跡文化財講座で田植え体験しました
こんど津島遺跡文化財講座を受講することにしました。無料ですが、平日を中心に年9回の講座があります。けれども、古代の稲の田植えから始まって、石包丁つくり、稲刈り、土器の製作とやってみたかった体験学習とわりとつっこんだ学習が出来そうなので登録してみました。今年は参加できる条件も整いましたし。一回目は岡山県弥生時代の代表的な遺跡である津島遺跡の概要学習と田植え体験です。国の史跡である津島遺跡は、岡山県総合グラウンドとその周辺に広がる縄文時代後期<約4,000年前>から近代にかけての複合遺跡です。これまでに何度か発掘調査が行われていて、弥生時代前期<約2,300年前>の水田や弥生時代中期から古墳時代後期<約2,200年前から約1,400年前>の人々が暮らした80軒以上の住居跡や生活に使ったたくさんの土器などが見つかっています。簡単な概要学習の後、津島遺跡跡に作られた講演の説明を聴きました。弥生時代前期、ここの大部分はほとんどは沼地でそれを生かして水田に変えて行き、集落は一部微高地30-50センチ高いところに作られたらしい。復元住居はそれより3メートル高くしたところに作られているので、遺跡が壊れたわけではないらしい。次第と土地が安定した中期から後期にかけて大規模集落になっていきました。竪穴住居の中では、暖や灯りや炊飯をするために火をたくが、その煤のタールのために家は30年は持っただろうといわれています。寝るときは、丸太を敷いて、わらを敷いてベッドにする。この時代布団はない。綿が日本に入るのは奈良時代かららしい。他にも鼠返しの完備した倉庫や作業場などを見ました。畑には大麦小麦のほか、染料になることで有名な紅花(写真)、繊維が衣服になるカラムシなども栽培していました。今日はその隣で田植えです。写真は百間川原尾島遺跡の稲株痕跡です。洪水で埋まったために田んぼの株跡がそのまま残っていました。それを見ると、一定苗代を育てた上で田植えをしていたことがわかります。現在と同じようにきちんと畦も用水路も作っています。一坪の中に400の稲があったそうです。かなり密集しています。それで換算すると一反で40-100キロの玄米が取れたのではないか、と言っていました。(あくまでも借りの計算です、と強調はしていました)。現在と違うところは、一枚一枚の田んぼがかなり小さいくて、なおかつ形がいいかげんなこと。(水平にする技術がまだで来ていなかったので、一枚は小さいほうがいい)これら田んぼの形式は、青森も九州も同じなのだそうです。ほとんど現代にも通用する米つくり技術は弥生時代、急速に日本列島全体に広まったのです。田植えは、陸稲でした。もちろん弥生時代、水田での田植えもしていたのですが、弥生時代は陸稲もあったそうです。苗代を用意してもらって一株づつ24株植えました。種類は陸稲、クロモチ、アカマイ、アカモチだそうです。根が雑なもので、少し根が切れたまま植えたかもしれません。果たして育つのでしょうか。心配です。