日本の社会保障を美国に売る人たち
つくづく朝日の論説委員はクズだ。8月3日の社説「社会保障 これ以上削れるのか 」を読んで、いくらなんでも「一組織としての朝日新聞社にジャーナリズム精神はもはやない」としか思えなくなった。朝日が31日に偽装請負を一面トップで報道し、そのあと3日続けて一面トップで報道し続けている姿勢は評価している。それはこの新聞社の社会部の片隅に生き残るわずかな『良心』なのかもしれない。だから少しは見直して今日は久しぶりに社説でも読んでみようかという気になったのだが、結局「一組織としての朝日新聞社」はつねに顔は政府と大企業に向いているのであって、回りまわって自分の保身のことのみ考えているのだ、としか思えなくなった。社説を読んでみる。「年金や医療、介護などの社会保障は頼りにできるのか。政府が決めた「骨太の方針」を読んで心配になった。」この問題意識は真っ当だろう。中学生レベルであるが。「例えば、年金だ。政府・与党は04年の改革で負担を増やし給付を切り下げることを決め、「100年は安心」と胸を張った。しかし、出生率の低下は予想を超え、現役世代の年収の5割の年金を保証する想定が早くも危うくなっている。 医療では、医師不足が深刻になってきた。医療費を抑える政策が続いた結果、病院の医師の勤務が厳しくなり、開業医に流れることが、一因になっている。 介護では、療養病床の廃止が不安を呼んでいる。引き取り手がいない高齢者の最後の受け皿をなくせば、「介護難民」が出るのではないかというのだ。 いずれも必要な改革ではあるが、年金や医療、介護を受ける側からすれば、厳しいものだ。削り方が足りない、もっと削れとなると、公的な給付やサービスはいっそう縮む。民間の保険などに頼らざるをえなくなる。それでは、だれもが安心して暮らせる社会とは言えまい。 」「民間の保険などに頼らざるをえなくなる」ようにさせるためにこそ、『骨太の方針』の趣旨があるのであるが、そこには気がついていないフリをする。或いは本当に気がついていない。ありえることだ。「高齢化に伴って財源が確保できないのなら、給付やサービスをカットするのではなく、まず公共事業や行政のムダを省くことでまかなうべきだ。それでもむずかしいのなら、保険料を引き上げたり、福祉目的で消費税率を引き上げたりするのもやむをえまい。」一般常識のあるものなら、この一文は前半こそに力点があるのだろうと勘違いするだろう。タイトルは『これ以上削るのか』なのだからなおさらだ。私もそう思った。ところがこの一文に続けて社説はこういう。「小泉首相は国民の負担を増やすことには踏み込まなかった。しかし、次の首相を担おうという人は、負担増を含めて社会保障の全体像を語るべきだ。」私は誤植なのかと思った。しかし書き間違いでは当然ない。この論説委員は「国民よ、保険料と消費税の値上げを認めよ」と言っているのである。なにが「小泉首相は国民の負担を増やすことには踏み込まなかった」だ。最新の『国民生活基礎調査』(厚生労働省06年6月28日)によれば、56%の世帯がいまの生活を『苦しい』と回答していて、86年調査以来最高値を記録している。一世帯あたり平均所得額はこの10年間で12%も減っている。それで税金の支出をもっと増やせ、というのか。「次の首相を担おうという人」は『アメリカへ』もとい『美しい国へ』という書の中で、朝日の社説に呼応するかのように、こう書いている。少し長いが、この人がいかに「やわらかい言い方」で「冷酷なことを言う」のかを実感してもらいたいので大幅に引用する。「国は、そのときの豊かさに応じた社会保障の仕組みをつくる。血のかよったあたたかい福祉をおこなうのが、行政サービスの基本であることはいうまでもないが、身の丈に遇わない大盤振る舞いはできないし、また、してはならない。なぜなら、給付の財源は、国民から徴収した税金と保険料だからである。」(P.167)「年金というのは、ざっくりいってしまうと、集めたお金を貯めて配るというシステムだ。だから加入しているみんなが「破綻させない」という意思さえ持てば、年金は破綻しないのだ。」(P.186)「社会保障とは、端的にいえば、人生のリスクに対してセーフティネットがはられているかどうか、ということにつきる。 リスクの一つは病気である。もう一つは、年を取って引退した後の生活。それから介護が必要になったとき。これは、自分が介護してもらう場合もあるし、しなければいけない場合もある。 また、障害をもつこともあるし、最初からハンディキャップをもって生まれてくる場合もあるだろう。 セーフティネットはこういう人たちのためにしっかりと張られていることが大切だ。 この仕組みは国家の責任においてつくらなければならない。それは国への信頼となり、全ての国民がチャレンジすることを可能にする。その財源が税金と保険料である。 保険料を払うのも国民、給付を受けるのも国民だから、負担と給付は、決して法外な水準にはならない。たとえば国民年金の場合は、月額にして6万6000円程度の給付だから、生活費に当てようとすると、たしかにささやかな金額である。そこで成り立っている合意は、最低限、生活に困らないための額である。 政府が保証する「最低限度の生活」はそこまでで、それにあと何をプラスするかは個人の選択に任されている。サラリーマンの場合は、その上に二階部分、つまり厚生年金が乗っている。企業によってはさらに三階部分として厚生年金基金が乗っている。また確定給付年金や確定拠出年金が乗っている場合もあるだろうし、あるいは民間の保険会社の保険や、他の金融商品で老後の備えをする人もいるだろう。」(P.195)税金と保険は身の丈にあわせて負担の値上げもするし、給付の抑制もするといっているのである。6,6000円は果たして「最低限、生活に困らないための」額だろうか。一度でいいから、半月だけでも最低賃金で生活してみてほしい。(私はやった)なんて空想的なことを言っているのか、身に沁みて分かるだろう。こんな生活観で「全ての国民がチャレンジすることを可能にする」社会になるというのか。国内に「難民」があふれ出ることだろう。難民から逃れようと、多くの国民は望むと望まざるとにかかわらず、「民間の保険会社の保険」や「他の金融商品」で「老後の備え」をするだろう。このレポートを読んで美国の指導者は「この男は一時期ナショナリストなので反米なのではないだろうか、という噂が立ったことがあるが、きちんと我々のポチになるじゃあないか」と闇の哄笑をしていることだろう。