スカイツリー、下町の夢を乗せて・・・
我が家の2人の子供たちは、東京タワーと、東京スカイツリーという、「二つの塔」を普段見ながら育っています。私たちが住んでいるマンションの、6階以上の階層になれば、西の方角に東京タワー、北の方角には、現在建設中の東京スカイツリーが、窓からくっきりと見えます。かなり贅沢な眺望ですよね(うちは1階部分なので何も見えませんが・・・)。来年開業予定の、スカイツリーは、高さ634メートル。東京タワーの約二倍、完成すれば電波塔としては世界一の高さになる。間違いなく、東京を代表するランドマークです。これだけ大規模、かつ強力な電磁波を発する施設の建設であるにも関わらず、スカイツリーは、地元の墨田区押上・業平橋の人々からも、おおむね好意的な目で見られているようです。この一帯は東京の下町。区画整理が進んだとはいえ、まだまだ入り組んだ路地や、木造家屋が密集した一角も多い。ここに、先祖代々暮らしてきた「東京人」も多い。下町のおばあちゃん、おばちゃんたちが、日々、すくすくと伸びていくタワーを、誇らしげに眺めている。この地では、目だった建設反対運動など、起こりようがないような感も受けます。これが山の手だったら、間違いなく、もっと強烈な反対運動が起こっていたはずと思います。良くも悪くも。なぜ、スカイツリーが地元に歓迎されるのか、私にはよく分かる。下町、とはいっても、押上・業平橋は、浅草から目と鼻の先。うちの子供たちが大好きな「浅草うんこビル」からすぐ。浅草から押上にかけての一帯、今は下町と呼ばれていますが、昔はここが東京の中心だったのです。大正期の浅草・・・東洋初の地下鉄(銀座線)、都営地下鉄初の浅草線、日本初の相互直通(京成・都営)運転、日本初のターミナル一体型百貨店(松屋浅草)、日本一の超高層浅草十二階、流行の最先端映画街など、ここが、まさに東京の心臓部。日本の最先端、常に新しい未来に向かってダイナミックに変化する街だったのです。当時の東京で、浅草を中心に公共交通網が整備されたのは、なぜか?それは、ここが東京の人口が多く集まる地域だったからです。当時は東京の東側こそが、圧倒的な中心地であり、西側は圧倒的なド田舎でした。<1920年の国勢調査:東側> 439,596 台東区 320,695 墨田区 269,812 中央区 254,324 江東区 121,412 荒川区 <1920年の国勢調査:西側> 18,099 杉並区 21,867 練馬区 22,287 目黒区 29,198 中野区 31,615 板橋区 39,952 世田谷区 それが、いつの間にか、東西逆転されてしまいました。山手線の西側が躍進した反面、台東区や墨田区は、今でさえ、当時の人口に及びません。西側では、新宿、池袋、渋谷の、3大ターミナルができたのに、東側では、それに相当するターミナルの一つも、作り出せていません。特に、浅草の凋落ぶりは激しく、今では、この街が時代の先端、若者が集まる町という人は誰もいません。雷門や仲見世のおかげで、東京を代表する観光地にはなりましたけど・・・。浅草や、業平橋・押上。この辺に、昔から住んでいた下町のおじいちゃん、おばあちゃんたちは、かつて、浅草が輝いていた時代を知っているか、あるいは、父母から伝え聞いていたことでしょう。今はパッとしないこの地域に、約80年ぶりに、チャンスがめぐってきました。それが、東京スカイツリーの建設です。東京で、いや日本で最大、東アジア最大の電波塔、スカイツリーの建設に、昔の浅草における、12階建て超高層ビルの建設を重ね合わせた人も、きっと多いことでしょう。しかも、スカイツリーは私鉄・地下鉄4路線が終結する押上駅と直結。そして浅草や錦糸町からも徒歩圏内。ここが、新宿渋谷池袋のようなターミナル駅に発展する要素を、十分に備えています。押上を21世紀のターミナルにしたいからこそ、東武鉄道は、スカイツリーに巨額の出資をしたわけですよね。もっとも、今は人口が伸びず、経済の厳しい時代ですので、都市開発、沿線開発、イメージ戦略で、相当な努力をしないとターミナルは簡単にできないでしょうけど・・・東京全体の人口が、ここ10年で東側にシフトしつつある今こそ、最後のチャンスかもしれませんね。いずれにせよ、地元の願いはひとつ。浅草の栄光を、もう一度!下町の夢を、もう一度!ここ押上の地に現出させたい、ただそれだけ。スカイツリーは、今日も天空に向かって、力強く伸び続ける。下町の夢と希望を乗せて・・・