そんなこといったって
父の口癖は「そんなこといったって」である。 どんなつかいかたか?「~さんって英語ペラペラらしいよ」という話題があったとすると「そんなこといったって、ペラペラにもいろいろレベルがあるだろう。どれくらいだ?」という。厳密さをもとめるツッコミである。冷笑たっぷりともいう。 他人への敬意をすなおにだそうよ、すごいねーでいいじゃん!とさんざん息子たち(というより主に私)が反撃したので最近では控えているようだ。ある意味正しい。が、それをいっちゃあ話はすすまんだろう。 とはいうものの正直自分の視点を決めているのはこのツッコミである。仕事の組み立てをやっているいまの部署もこの視点が重要になっている気がする。絶対評価ではないにしろ、なんらかの格付け。参考資料を脳内でとっさに組み立てる。いやなやつかもしれない。そう,結局は父と同じモノのみかたをしているのだ。 と思っていたのだが、ふと自己分析をして愕然としてしまった。無防備なものである。 電車で座れずヒマだったこともあって自分が学生時代シェイクスピアをかじったから多少はなにかがあるだろうと思って知識入手の分布図をかいてみたのだが(相当ヒマだねオレよ)。なんと(というほどおおげさではないにしろ)!自分はたいしてシェイクスピアを観ていないのだ。父のことばを借りれば「観ているといったっていろいろある」のだ。 一作品あたりになにを観てなにを読んだかを書いてみればたいした行数にならない。テキストデータというものは概してそういうものかもしれないが。脳内でつないでいるイメージのなんと大きいことか。 知識がすべてではない。なにを吸収してなにを感じたかも重要ではあるのだが。なにをやったかということの頼りなさよ(詠嘆)。よりどころであるはずの「なにをやったか」。学生時代の遊びですらそうならほかはどうなるのだろう。考えたくもない。 「なにかを知っている」、あるいは「みんなに知られている」でもいいのだが、自分の存在価値のなんとあやういことだろう。だから「この世界ではちょっと知られているぜ」みたいなことをいうやつは信用していないのだ。 よく文章の行間を読めという。そんなこといったってたとえば柔道の篠原が誤審で負けたからといって※で「誤審」と判断してくれるひとがどれだけいるのか。行間が読めなくても圧倒させるデータを結果として残せたら。そんなことを考えてみた。 というまえにはやめに無知を知っとけよ30代のオレよ。(♂)