80年前のひな祭り
9日、ラジオを聴いていたらこんなニュースを聴きました。「横浜人形の家」にて、14日まで「青い目の人形」展を開催。「青い目の人形」とは?今から80年前の1927年3月のひな祭りの日。 アメリカから親善大使として大挙来日した青い目の人形、 「友情の人形」歓迎会が政府高官及び多数の児童が参加して行われました。 (写真はその時の歓迎会の様子) これは第一次世界大戦後のアメリカで巻き起こる日本人移民排斥の機運に心を痛めたギューリック博士が日米親善はまず子どもたちからと企画したもの。 博士は宣教師として明治の日本にやってきて、以来25年に渡って日本で過ごす 親日家でした。日本では3月にひな祭りがあることを知っていた博士は、 それに間に合うようにと、全米各地で日米友好の大切さを訴え、 「友情の人形」を日本へ贈ることの意義を唱えます。 そして全米各地260万人もの子どもたちが参加。バザーや募金を通じて12,000体以上つくられます。 女の子とその母親たちが、一体一体手作りで洋服や帽子など縫っていく。 ハンカチや靴下まで全て揃っていたというから、遠い異国の地へ赴く人形に対するアメリカの子どもたちの気持ちが窺い知れます。 そして人形全てに名前が付けられ、パスポートも持たされていました。 汽車で移動する際には切符も与えられたというほど、本当の親善大使として人間同様に大切に扱われたんですね。 日本に到着した後、上記歓迎会が盛大に行われ、その後「友情の人形」 たちは、日本全国(当時日本領だった朝鮮、台湾、樺太含め)の小学校や幼稚園に贈られます。 髪の毛も目の色も着ているものも違う人形たち、 体を動かすと「マーマー」と声を出したというから 当時の子どもたちにとって大変な驚きだったことと思います。 海の向こうのお友達に思いを馳せたことでしょう。 そして博士は返礼は無用と日本側に伝えていましたが、 人間同様の親善大使を贈ってくれた感謝の気持ちを表すために、 日本では、答礼人形をアメリカに贈ることにします。 人形を受け取った学校の女子児童250万人から1人1銭の寄付を募り、高級な市松人形をつくりました。 1道3府43県及び6大都市、当時日本領だった朝鮮、台湾、樺太、関東州の他、皇室御下賜の1体を加え計58体。 「倭日出子」(ミス大日本)「東京子」(ミス東京)「日光幸子」(ミス栃木)など、全てに各地域代表として名前が付けられます。 日本ではひな祭りに合わせて贈ってくれたため、アメリカへはクリスマスに間に合うように贈り届けられました。 やはりパスポートを持たされた答礼人形たちには、次のようなメッセージも添えられていました。 皆さんへの尊敬と友情をお届けする使節を受け入れ、 優しくしてください。一生おそばで暮らし、ほんたうの 友だちになるでせう。 サクラ咲く国の国民からそして11月末にアメリカへ無事届けられ、盛大な歓迎会が催されました。 しかし、時は流れ・・・1941年。日米は戦争に突入。 青い目の人形たちは、残念ながらその多くが燃やされたり竹槍で突き刺されたりして破壊されていきました。 敵国アメリカの象徴と看做されてしまったのです。 小学校の校庭などで児童が見守る中でこういったデモンストレーションが行われたということは、 子どもたちの心に深いキズを負わせたことと思います。 しかし、ごく一部の人たち(主に人形の管理を任されていた先生方)の手により 戦後まで生き残った人形が約300体あった、ということがわずかな救いでした。 さらに月日が経ち、日米双方でこれらの人形が発見され、”里帰り”を果たすケースが間々あり、 今でも学校を主体にしてその保存と親善交流が続けられているそうです。 80年前の子どもたちの人形による親善交流は、その後の悲劇がありましたが、 今も尚続けられていることを知って、非常に感動を覚えました。その彼女たちは今年で80歳を迎えます。 こちらのHPで詳しく紹介されています。ぜひ読んでみて下さい。 蛇足・・・ 当時良く歌われた唱歌「青い眼の人形」は、戦時中疎開先の宇都宮で亡くなった野口雨情によるもの。彼は「赤い靴」や「しゃぼん玉」「七つの子」などの作品で有名だと思います。実際はこの時期より数年前につくられたもので、直接の関係はなかったようです。 「青い眼の人形」 青い眼をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド 日本の港へついたとき いっぱいなみだをうかべてた わたしは言葉がわからない 迷子になったらなんとしよう やさしい日本の嬢ちゃんよ なかよくあそんでやっとくれ なかよくあそんでやっとくれ 友情の人形使節ウォヘロちゃん