坂の上の雲と乃木希典 ~春の乃木神社~
今年もまたドラマ「坂の上の雲」が始まりましたね。毎週楽しみに見ているのですが、前回は日露戦争の激戦地「203高地」での戦いでした。この作戦の現地での司令官が、あの乃木希典(大将)です。以前たまたま赤坂に宿をとった際、乃木大将を祭った乃木神社へ行ったことがありました。春の桜咲く乃木神社の様子をご紹介しながら、乃木大将とはどんな人だったのか、少し記してみたいと思います。舞台となった「203高地」は、中国の旅順(現在の大連)にあります。当時旅順にはロシアの一大要塞がありましたが、そこに集結していたロシア太平洋艦隊を撃滅しようと封鎖作戦をとった海軍の戦略は失敗に終わり、戦況は長期化していました。乃木神社2 posted by (C)Naoロシアにはこの艦隊の他にも、強力なバルチック艦隊が黒海沿岸にいて、この艦隊が太平洋戦線に加われば、日本が劣勢に立たされるのは明らかでした。何としてもその前に、太平洋艦隊を撃滅しなければならず、焦った軍司令部は陸軍にこの203高地を占拠し、艦隊を砲撃する作戦を強行したのでした。乃木神社4 posted by (C)Naoさて「坂の上の雲」の中では、乃木大将はこの日露戦争の旅順要塞攻撃で未曾有の戦死者を出したとして、軍人としては無能な愚将のように書かれていますね。果たしてそれはどうだったのでしょうか?多くの戦死者を出したのは事実としても、これをすべて乃木大将の責任にするのは、少々酷な話のようです。旅順が勝敗の明暗を分ける要塞であるにもかかわらず、十分調査出来ていない中、適切な兵力を投入しなかった軍司令部にも責任があったと言われています。乃木神社5 posted by (C)Naoやがて業を煮やした児玉参謀長が自ら乗り込んできて、乃木大将に代わって部隊を指揮し、見事に203高地を占拠することに成功します。坂の上の雲では、判断力や行動力という点で、二人が対照的に描かれていますね。乃木神社9 posted by (C)Naoところで、乃木大将の軍人としての采配がどうだったのかは別として、彼の武士道精神の素晴らしさは世界的にも評価されているようです。旅順陥落後の会見の際に、乃木大将は昨日まで敵であったロシアの将軍へ食料や酒を届け、両軍の兵士達は互いを労わり、健闘を讃えあったと言います。乃木神社6 posted by (C)Naoまたロシアの将軍が、乃木大将がこの戦闘の中で、自身の二人の息子を失ったことに同情すると、「息子達はサムライとして名誉の戦死に喜んでいるはずです」と答えたそうです。ロシアの将軍は、日本の将兵の勇敢さに驚いたといい、彼の名前とともに日本の武士道精神は、ニュースとして世界に広く知れ渡りました。乃木神社7 posted by (C)Nao203高地の戦闘で二人の息子を亡くした乃木大将は、その後狂ったように戦線に出たがり死に場所を求め幕僚達を困らせたという話もあります。日露戦争の戦勝凱旋の日、明治天皇に対し「大勢の陛下の赤子を失った罪を死で償いたい」と涙を流しながら伝えましたが、天皇は「自分の生きている間は、それは認められない」と言ったそうです。乃木神社8 posted by (C)Nao明治天皇は、彼を後に学習院院長に任命し、子供たちの教育を任せます。彼の教師としての熱血ぶりも大変なものだったそうで、生徒一人ひとりを大切にし、より多く生徒と接するために寮に住みつき、剣道、水泳、遠足と常に生徒と共に行動したそうです。乃木神社10 posted by (C)Naoまたそうした中においても、彼は戦死した兵士達の遺族を慰問し、一軒一軒頭を下げてまわったのだとか。自らも二人の息子を亡くしている彼は、遺族の苦しみ悲しみを共感をもって受け止めたことでしょう。乃木神社1 posted by (C)Nao大正元年9月13日、明治天皇御大葬の車が皇居を出発する合図の号砲と共に、彼は妻とともに殉死しています。彼は最後まで天皇の命に忠実であり、日本の武士道精神を貫きました。後に乃木神社が建立され、多くの日本人の心の支柱として祀られています。乃木神社12 posted by (C)Nao太平洋戦争時、乃木神社周辺だけは空襲に遭わず焼け残ったようです。それは連合軍総司令官マッカーサーの指令によるものなのだとか。マッカーサーの父親は、日露戦争時に従軍武官で、乃木大将を最高の武人として敬服し、息子にそれを伝えていたのだそうです。乃木神社11 posted by (C)Nao「坂の上の雲」は、次回バルチック艦隊との海戦ですね。戦艦三笠の活躍が、今から楽しみです。にほんブログ村