IJIME考
IJIMEは、共同体での自己存在確立の一つの方法となっている。なぜならば、現在においては、絶対的世界観が失われ、人々は、複雑怪奇な世界の混沌のなかに放り出されているからだ。人々は、相対的世界観の優劣によって、共同体における存立基盤を獲得せざるを得なくなっている。IJIMEは、同じシーソーに乗っていることが前提になっている。そうでないと無効となる。別々のシーソーでは、共同体から一方がはみ出してしまうため相対的優劣が生み出されないのだ。そこで、IJIMEに対しての処方箋は、シカとせよ。ということになる。シカとされることをIJIMEと捉えるのではないんだ。シカとされることに傷つくということは、同じシーソーに乗っていることを自ら証明していることになる。よって、追い込まれることになる。そして自殺に至る。IJIMEに対しての最大の防御は、逆手にとっての攻撃が有効である。つまりは、自らアウトサイダー(シーソーから降りる)になるのである。あるいはディソシエイション(自己分離化)するのである。更に最大の自己武装は、外的圧力に屈して自殺に追い込まれないために、自ら死ぬ時期を決めておけばいいのだ。つまり自己の死については、自分がコントロールでき得ることを自他共に表明しておけばいいのだ。(究極の自己分離化である)IJIMEに遇う人は、大抵純粋なこころを持った人である。そういう純粋な人のところに悪魔的な重石がその人以外のすべての人々(共同体を同じくする人々)から運びこまれてくるのだ。シーソーは、純粋な人だけが、下方へ落ち込んでいき、その他の人々すべてが上方へ浮き上がる。だから、一気に飛び降りてしまえばいいんだ。そんなシーソーからね。そのあとはきっと悪魔的な重石が、残された人々を轢死させるだろうよ。いずれにしろ、現在は、相対的に自己を優越化しなければ共同体で存立できなくなっているんだ。そういう時代だからこそ、IJIMEが頻発している。そういう時代だからこそネオテニーな人間は、自己を賢明にも分離化し、客体化してみせる。ネオテニー性はIJIMEのターゲットになりやすいかもしれないが、それを逆手にとって、絶対的世界観に存立することも可能なのである。唯一、彼だけがね。だからあえて声を大にして言おう。IJIMEに遇ったら、その機会をうまく利用せよ。利用して、自らの絶対的世界観を構築せよ。きみは、そういうチャンスに恵まれているわけなんだ。だから、同じシーソーに居続けるな。飛び降りろ。負けるな。間違っても追い込まれて、死ぬな。勿体無いぞ。