残花抄 ある女の歳月 9
2・26に関しちゃ、いい話ばかりじゃあござんせん。 旦那、これはあとになって陸軍省関係からもれた 話なんですがね。 なにしろ赤坂はご存知のように陸軍様さまの土地柄 ですからね、 その筋からの噂話が乱れ飛んでおりましたので。 2・26で襲撃された牧野前内務大臣のことなんですが、 あまりにも笑わせるじゃありませんか。 もっとも牧野前内府は、殿様あがりの伯爵さまだえ。 青年将校の襲撃に遭ったって、腰を抜かして動けや しない、やむなく家僕が背負って逃げたっていうじゃ ありませんか、だらしがないったらありゃしない。 当時牧野さまは湯河原に逗留中だったけど、 付き添い看護婦が、それも、年のころ25.6の美人が、 日本刀を振り上げて、応戦したっていうじゃあないかえ。 おかげでその女は、瀕死の重傷を負ったって。 「御前、お逃げあそばせ」 って叫びながら、敵をわが身に引きつけといて、 大立ち回りさね。 女ながらも見上げた根性だってえんで、後々まで 取り沙汰されたんですよね。 まあ、この話にしたってどこまでが本当やら。 付き添い看護婦ということになっているけど、 その実、ありゃあ、牧野さまのお手つき女中だった とか、かまびすしいものでした。 2月29日になって、ようやく動乱は鎮圧されて、 青年将校たちは縛についた。 その時責めを負って首謀者の一人の、本田努大尉が 自決。 このことにまつわる話が、まだありましてね。 当時赤坂でも指折りの芸者の冨奴ってえ、姐さんが 本田大尉のあとを追って自刃さね。 どうにか一命は取り留めたものの、冨奴姐さんは のどもとに深い切り傷が生涯残ったんでして。 そりゃあ、姿かたちのすっきりした江戸前芸者の華と うたわれた人でしたがね。 私だって長橋がもしも自決していたら、同じことを やったと思いますよ。 それが赤坂芸者の心意気ってものだからね。