誕生を記憶する子供達
そんな本を読んだ。 ベビーシッターをしていた友達のうちにあったので,借りてきた。以前から,いつか妊娠するときのために,いつどのように赤ちゃんが形成されていくのかを調べておきたいと思っていたのだけれど,それが大まかな流れで書いてあるとともに,出生前後の記憶をありありと思い出している症例がたくさん書いてある本。以前別の本で,『胎児は語る』というのを読んだことがあって,内容はそれに共通するものが多かった。なかなか面白く読ませてもらい,ページも終盤に差し掛かった頃。この本を貸してくれた友達へのメッセージ,としか受け取れない文章が目に飛び込んで来た。海はこういうこともよくある。 タマタマ読んでいる本の中に,たまたまその時話すことの多い人が「聞きたい・聞く必要がある」のではないかと思わせる文章が,必ずでてくるのだ。それだって,その人に何かを伝えたいと,海が思っているわけでもないのに・・・だ。2週間彼女と一緒に時間を過ごして,まざまざと感じたのは,いかに彼女が嫉妬深く,かつ喪失感に満たされているかということ。とても恵まれているのにもかかわらず。バイトの最終日に,彼女への態度に,海がぷちんと切れた瞬間があった。その一言は,「何もかも,私のせい。」 だった。はぁ~っ!? (*ー'`ー)海の全身の毛穴から,一気にヘドロが流れ出したよ。 ありえない,ありえないったら, アリエナイ!! 一軒家を持ってそこに住み,まめなだんなを持ち,素晴らしくかわいい子供がおり,犬も飼っていて,今は産休中とはいえ手に職も持ち,料理はうまいは絵は描けるは,読書家だは・・・と何でもかんでも揃っていて,あのせりふ。決してお金持ちではないけれど,幸せと一人ごちるのには十二分な環境にあって,なんて勿体のないこと。お天気の良かった最終日,彼女のワンコがいつもより早い時間に散歩に行きたがったことに,そのせりふは端を発する。雨風の強い日は,海が一人で散歩に連れて行っていたのだが,晴れてる日は太陽を浴びるために,彼女も子供を連れて一緒にやってくる。赤ちゃんがまだミルクを飲んでいなかったので,もう少しまとうねー。と言い聞かせていたのだが,犬はどうしてもお散歩に行きたい。「だって天気がいいんだもの!」 って目をして鼻をくんくん鳴らしている。何度かマテの命令をだしても,言うことを聞かないワンコと,まっても待っても腹減ったサインを出さない赤ちゃんの両方に苛立ち,赤ちゃんを抱っこして窓の外をみながら,自嘲的に先の一言を言ったのだ。海はさ,彼女がそれを言う裏の意図がわかるわけだよ。でもね,「何でそう思うの?」と確認のために聞いた。「どういう意味?」って。すると,「犬を飼いたいって言ったのも私,子供を欲しがってこの子をこの生きにくい世の中に押し出したのも私。 年のいっただんなに無理をさせて疲れ果てて,機嫌を悪くさせているのも私。 だーれも幸せにすることができないんだー。」はぁ~っ!? (*ー'`ー)あきれ果てて,思わず,「そんなん・・・。 みんなでここにこうしていられることが一番幸せなのに? お母さんが幸せだったら,この子だってだんなだって犬だって幸せになるってモンでしょう?」 吐き出すように言ってしまった。これはクォンタムタッチの原理でもあるし,波動の法則でもある。彼女は海からそういう話を聞きたくないので,説明する機会がないままだけれど。彼女は海の嫌悪感に反応して,その後海にさらに失礼なことを言ってよこした。その一言で,彼女が彼女自身を,そして海をどう思っているのかわかった。 以前からきこえていたことだけれどね。この人はいったい何? 何でこんな勘違いをしたままでいられるのだ??そのとき,心の中の海は,辞めてやる~! (°∇°;)ハァハァ とばかりに,ちょっと前に渡されていた小切手を破り捨て,こんなお金は要らないから2度と連絡しないで。 と言っていた。 (* ̄m ̄) ププッその小切手も,朝一にテーブルの上に置かれて,「まだ終わってないよー? 最後でいいのに?」 といったら,「だってとんずらされたら困る。」なんてことを言いながら渡されたものだ。 不安で仕方がないのだねぇ,彼女は・・・。なんにしても,引き受けた仕事は最後までやるよ。だからグーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッと我慢をしたけれど,身の程知らずの彼女の言動に対する怒りのあまり,大っきなため息が出た。海は怒ると黙るタイプ。そして怒っている自分を把握して,その怒りを処理し,その後すぐに忘れてしまう。この時もそうだったが,海がそうして自分の中でプロセスをしていたら,急に彼女の声音が変わり,こちらにおもねる雰囲気になってきた。そういうのもね,昔の海だったら,あほか! と思って以後二度と口をきかなくなる原因になったのだけれど,仕方ないね。 人間だしね。 と合わせられるほど大人になっている。お母さんを数年前になくしている彼女,その痛みを解放できていない。 子供を欲しがっていたのも,喪失感を埋めるためだ。だから実際に授かって,あんなにかわいいのに,結局自分のことばかりで,周囲の事が何も見えていない。そして,「全ては起こるべくして起こり,あるがままでの良い状態」というのを,口ではわかっているといいながら実行しない。お母さんが恋しいとしきりに言うので,なるべくやさしく,「お母さん,一緒にいるよ・・・。」と言ってみたら,「それはわかってる。でも・・・。(うんたらかんたら) もっといろいろやれたはずだと思うんだ。 後悔するんだ。それが人生ってモンだと思う。」 といい続けている。えー。 海はそれとは違う考え方だ。 後悔は先にたたないんだから,仕方ないよ。 悪いことやつらいこともそらたまには起こるよ。 でもそれも,いいことがまたあるための布石でしかないよ。そう控え目に告げたら,競うように,「違うことないじゃない。」という。まぁ,もう,どうでもいいや。 さじを投げた (・_・ )ノ ─〇 ポイ!最終的には,彼女は自分自身の態度を謝ってくれたのだが,いつまでも不平を言い続けるのは健康によろしくないし,喪失感や育児疲れ,ホルモンのバランスをたてにとって人を侮辱する言動をしていいものではないとも思う。昨日は日本の友達からのメールで,「自分の中にいる悪魔」の話が出た。誰にだって潜んでいる,闇と魔。それはあってしかるべきもの。 闇がなければ光は存在しないし,魔がなければ愛も存在しない。結局全ては相対的なものでしかないけれど,それら全てを含んだものが「いま」であり「ここ」であるのだ。片方しか見ないのは,太陽に背を向けて小さな箱に囲われた自分の影だけを見つめ,視界をさえぎっていることをまったく気づこうとせずに「太陽がない」とわめいているか,太陽を直視して,明るいワー! でもまぶしすぎる~!とわめいているだけのことだ。背中の温かさは,間違いなく存在するのに,それに気づくだけの余裕もない。 木陰の心地よさは,間違いなく存在するのに,そこにいくだけの気持ちのゆとりもない。さて,そうはいっても,「自責の念」「罪悪感」にとらわれやすいのは,人のサガでもあると思う。タイトルの本からの一説を,抜粋しておこう。【罪悪感を持つ癖をやめる】あなたは何かにつけ,自分を責めないでは気がすまないのではないだろうか? 強い罪悪感を抱きがちな家族や家系もあり,そういう態度が父親譲り,母親譲りという場合も多い。 気をつけなければならないのは,自分を責めることを愛情表現の手段にしていないかどうかである。 もしそうなら,その癖を改めるように心がけ,代わりに本当の愛情表現のほうに心を砕かなくてはならない。【全てが親の責任ではない】罪悪感の大きな原因の一つは,親は子供の人生の全てに責任があると信じ込むことだ。 これはまちがいである。 子供が何か悪いことをすると,親は取り乱し,自分達が悪いのではないか,何か落ち度があったのではないかと悩む。 おそらくそんなことは何もない。 親の力は,子供の人生に加わる多くの力のうち,ほんの一つにすぎない。 自分の及ぼした力は支配ではなく影響にすぎないと考えられるなら,罪の意識もそれ相応の大きさに縮んでいくはずである。上述の部分では,「親と子供」になっているけれど,それは夫婦間でも恋人間でも友達間でも,一緒だと思う。相手が,動物や植物や無機物でも,そうだと思う。自己憐憫を隠すための「自責の念」ほど,物悲しいものはない。何か失敗したら,心ゆくまで反省すればいいじゃないの。何かが心残りなら,飽きるまでそのことを思い続けていればいいじゃないの。それらを感じる心すら,「自責の念」で縛ってしまうから,手放す糸口がつかめなくなる。便器に落とした糞尿を,くさいくさいといいながらこねくり回しているだけのように感じるのは,海だけであろうか?件の彼女は,2週間,「人の子」にめろめろになる海の姿を見続けて,ようやく子供の愛しさが身にしみてきたようだ。 海が帰る頃,ようやく一人で育児をする心づもりも整ったよう。それに応えて,赤ちゃんはさいっこうの笑顔を返しだしていた。安心して去れると感じた一言は,おっぱいをあげながら赤ちゃんと見つめあい,「そんな笑顔を向けてくれるようになったら,ママ,2時に起こされても,泣き喚かれても,もう何されてもいいって思うよー。」だった。ああ,これで大丈夫だ♪ \(@^o^)/ <キャッホー!!愛を向けるのは,まず自分。自分を赦してあげると,亡くなった人も成仏できる。自分を許してあげると,周囲の人も解放される。彼女の解放とともに,新しい命もさらに輝くことを祈ろう。