チャップリン 「街の灯」
娘たちと約束したチャップリンの「街の灯」をお昼休みに見ました。今、この作品の奥深さに、胸を打たれています。冒頭シーンの「平和と繁栄」の像の除幕式、白い幕を除くとそこには浮浪者のチャップリンが熟睡いています。この映画が完成・公開されたのは、1931年。1929年が世界大恐慌ですから、その真っ只中の作品です。世界第一次大戦の好況に沸いたアメリカは、あたかもバブルに沸いた日本のようです。そして、その後のデフレ不況。当時の不況が「大恐慌」と呼ばれ、どれだけ凄まじかったかということを背景にしっかりと考えて、この映画、そして、シーンを見なければなりません。現在の格差社会を彷彿とさせるような時代です。・・・当時はもっと悲惨だったでしょう。「平和と繁栄」の陰には、浮浪者と言う現実が覆い隠されている。チャップリンは、冒頭のワンシーンで、そんな現代(1930年)を批判しています。サイレント映画にこだわったチャップリンは、トーキー映画へと時代が移り変わろうとする中で、サイレント(無声)で、この作品を完成させます。チャップリンが悩んだのは、盲目の花売りの娘が、浮浪者のチャップリンをお金持ちの紳士と勘違いするシーン。このシーン1つ完成させるまでに、かなりの時間をかけたと聞いています。花売りの娘も演技が気に入らず、交代させましたが、結局は最初に選んだヴァージニア・チェリルが演じることになります。この映画には、奥さんとの離婚がきっかけで自殺したがる富豪が登場します。「花を買いたい。」というチャップリンに10ドル札を2枚さっと差し出す富豪。酒を飲み、酔っている間は、浮浪者を友と呼び、酒を飲み交わすこの富豪は、素面(しらふ)になると酔った間の記憶がなくなります。チャップリンは、お金と財産、そして、お酒は、人を変えると言いたかったのでしょうか?金持ちの偽善を批判したかったのでしょうか?花売りの娘は、祖母と暮らしていますが、生計はままならず、家賃の滞納により退去を求められます。この金額が22ドル。盲目の彼女の目の治療費と滞納した家賃を稼ぐために、浮浪者は、意を決し働きます。道路の清掃、賭けボクシング。万策も尽きた時、ヨーロッパ帰りの酔っ払った富豪に再会し、1000ドルを援助してもらうのですが、このお金のために、結局、泥棒に間違われてしまうのです。酔ってパーティーを開き、自殺したがる富豪と、祖母を助け、盲目でも生きるために、街角で花を売る娘。社会の不条理を明確に描いています。浮浪者は無実の罪で1月に投獄され、季節は秋へと移り変わります。街角には目の手術が成功し、美しい花屋を経営するようになった娘の姿があります。娘は自分を救ってくれた紳士との再会を夢見ているのです。お金持ちの若者が来店した時に、彼かと思うシーンは印象的です。・・・彼女は白馬の王子を期待していたのかも知れません。そして、映画はラストへと移ります。ウィンドを覗き込む刑務所から出てきたばかりの浮浪者。娘は、まさか彼が恩人だとは思いません。あまりに哀れなその姿に、一輪の花(この花の扱いは、この映画を通して重要です。自殺しようとした富豪を救うシーンでも、忘れそうになった一輪の花を、わざわざ取りに戻るシーンがあります)と、コインを一枚施そうとします。そして、恥ずかしい自分の姿に浮浪者が立ち去ろうとして、その手がふれた瞬間・・・・。“You?” “You can see now?” “Yes, I can see now.”と言う3つの台詞が交わされます。「あなたでしたのね。」娘は彼が、自分を救ってくれた紳士だと気付くのです。ヴァージニア・チェリルの最後の表情、そしてチャップリンのラストの微笑み。見事な演技です。本当の「愛」とは、「思いやり」とは?・・・・・無償の愛とは。本物の紳士とは、「やさしさ」とは。そんなことを感じさせてくれる名作です。「情熱創造プロジェクトとは」「情熱創造プロジェクト」