アドラー心理学の新展開
今日は半休をいただいて、横浜市港南区上大岡にて野田俊作先生の講演会に出席した。「アドラー心理学の新展開」をテーマにした講演会で、「新しい時代を迎えつつあるアドラー心理学はよりソフトでより強力な21世紀的な治療デザインが次々と開発され、他の流派との心理療法とも活発に交流するようになってきています。」という講座の説明に惹かれて参加を決めた。新たな治療デザインは何がベースになっているのだろうと楽しみに会場に行った。先日、加賀野井先生の「メルロポンティの言語論」で言語の役割について講義を受けたばかりだったが、今度は心理療法の視点から構造主義の重要性が説かれた。レヴィ・ストロースやソシュールをこれまでのアドラー心理学の技法と融合させることが可能であること、そしてそれが有効であること。野田先生は今回の講義では「構造主義とは、一度すべてを言葉にしてみる方法」というコンテキストで話が進められたが、心理療法は言葉の療法であることを考えると、こうした構造主義の思想と心理療法は相性が悪いわけがない。講義の最中で、現象学は言葉に対する尊敬が少ない、言葉だけが自分と相手が持つ共通項であるということを重視しないと指摘したが、現象学は身体図式が核となるという観点から見たときには、ここは意見が重ならない部分だろうと想像できる。先日書いたブログではないが、私たちは話している最中に、自分の思いを確認する。私などは、なんとなく不調があって病院に行き、医師に「どうしました?」と聞かれて「どうしたんだっけ?」と戸惑い、話しているうちに客観的に自分の症状を理解していく経験を持っているが、まさにこうした状態をカウンセリングで味わったことがある。「どうしました?」と聞かれてやっと、問題が「問題になる」のである。思いやフィーリング同様に、情念は、言葉として形を持つまでは存在しない。好き、と言葉にして、その思いがはっきりと「自分の定義の中での好きのカタチ」を持つ。そうした言葉と感情の発露の順番を理解できなかったり、感情を言葉として扱えないのであれば、感覚的で動物的であると言われても仕方がない。子供などは、言葉を理解できた時点でやっとお絵かきができるようになる。顔、足、手という認識がなければそれは存在しない。外界というのは、言葉によって形になっていく。こうして考えると、私たちの「語り口=storylying)によって問題がつくられるのであり、出来事の語りなおしができれば問題(そして住んでいる世界)は変わる。カウンセリングは、「何が起こったか」よりも「どう語るか」を知るための手段として使われる。そして、相談者とカウンセラーの間の共通点は言葉である。母親の言葉が「息子は勉強しないし生活習慣もよくない」と訴えたときにすら、息子の実際の行動(外界)も、母親の実の気持ち(内界)も分からない。確実に分かるのは、語り手の口から出てくる言葉だけである。この後、表層構造、深層構造と、クライアントが問題に気づきやすくするための技法に話は移っていくのだが、その部分は省略するので興味がある方は講座に参加して欲しい。アドレリアンは、「共有」はできると考えるが、「共感」ができるとは考えない。それは、言葉より感情が先にあると想定してしまうと、手が届かない部分が出来てしまうからである。誰も、相手になりきり、体験をすることができない。その事実を踏まえ、私自身もロルファーとして「共有」することに意義を求めようと思った。私は時に情に流されすぎるので、この言葉は素晴らしいストッパーの役割をしてくれるだろう。加賀野井先生の言語論との比較を上手に入れることができればよかったのだけれど、まだそこまで理解できていないので、言語化できなかった。私の理解は、非常にゆっくりと起こる。*********先日、カッコつけてヒールの靴で早足で歩いたら、左の膝を痛めてしまった。でも、健康よりもオシャレがしたいときだってあるのである!