『「うるさい」日本を哲学する』 その2
前回書いた『「うるさい日本」を哲学する』にコメントをいただいたので、気をよくして続きを書いてまいります。加賀野井秀一先生と、中島義道先生の往復書簡を読ませていただいていると、お二人の違い(気質やアプローチの仕方、好みや環境)がだんだんと明白になってきて、あたかもお二人のやりとりが目の前で成されているかのような錯覚を覚えてます。それほどリアルなやり取りであると言い換えることも出来るでしょう。<第二信:言霊の国 加賀野井先生→中島先生>加賀野井先生から中島先生に宛てて送られた第1信には、お二人の個性の違いと、共通点とが伺えます。ウィーンの中島先生宛てに、シチリア、パリと羽を伸ばして日本のご自宅に戻られた加賀野井先生から返信が送られます。加賀野井先生と中島先生は、タイプとしてかなり違う。哲学へのアプローチの仕方も、加賀野井先生がフランス的とすると、中島先生はドイツ的。中島先生はいつかは死ぬ、とおっしゃる。加賀野井先生は「どうせ死んでしまうのなら今を楽しもう」と考える。食べ物の好みも全く違い、中島先生が食材の原型をとどめたものは受け付けないのに対して、加賀野井先生はナマコ、ホヤ、クサヤ、ウォッシュタイプのチーズ、カンガルー、ワニと何でも食べてみる。そして何と、加賀野井先生は中島先生の考える「嫌いな10人の人々」の半分以上の項目に相当するという。これで果たしてお二人の会話は成立するのかというほどの食い違い様で、読者の方が心配してしまいます。お二人が出会ったのは「拡声器騒音を考える会」でした。そのとき司会をしていらした加賀野井先生に、「こんなことをしてもあまり意味がない」と、会の士気を下げてしまうがごとき発言をしたのが中島先生だったと回想しています。 ただし、要の部分での共通点はあります。加賀野井先生ご自身も、劣悪な日本の音環境を憂い、それを嬉々として受け入れる人が居ることに驚くと中島先生に語っています。そして、30年以上にわたって、「音の発生源に向かって、怒鳴りつけたり、懇願したり、理路整然と反論してみたり、実力行使に訴えたり、はたまた、お役所への陳情や、マスコミまで巻き込んだ阻止運動を展開したり」したこれまでの憤りの敬意を述べていらっしゃいます。その結果、日本独自の文化や歴史の壁にぶつかってしまったと告白しています。加賀野井先生は、騒音の問題は、大半の人が「たかが音くらいで」と考えることに問題があると、まず問題点をひとつ挙げています。加賀野井先生、中島先生が挙げている「騒音」とは、社会的に認知されておらず、騒音として問題化されずに隠蔽されているところに「まさしく日本文化に特有の問題点がひそんでいるように思われます」と指摘しています。日本人の「大多数が望んでいるのは、『理屈』や『実効性』ではなく、『善意』であり『情』であり『和』であることになるでしょう」と分析しています。私も、こうした日本人の(厳密に言えば、日本人が寄り集まったときの)精神構造に疑問を感じることが多々あります。例えば、倫理的に許されないことをしても、それを「おかしいのではないか」と正す人が居ない。それどころか「まあまあ、許しましょう。だって彼女は無償でがんばってきたんだから」と情を持って横槍を入れる人がいる。こういう輩は、自分が無償で働くことで周りから認められたい願望を持っているのでしょう。話が少し反れてしまいましたが、文中には、「こうした日本人特有のおためごかしも同時に分析しつつ、書簡の往復を進めませんか」と加賀野井先生側からの提案があります。「同時に」というのは、加賀野井先生は、この回の書簡では、日本人は「言霊」信仰があり、それが問題の根本にあるのではないかと意見を述べていらっしゃるからです。言霊思想は、言葉の使い方一つにも意味を求め、お見舞いに「根付く」鉢植えを持たず、結婚式に「切れる」刃物を送らず、縁起を担いで「すり鉢」を「あたり鉢」、「するめ」を「あたりめ」という。こうした言霊思想は、現実のすり替えや隠蔽を容易にしてしまう。値上げは料金改定とされ、「海外派遣」を「人道援助」と呼びかえる。つまりは、少しでも不安や不信を煽るような言葉は「祝詞(のりと)」的な言葉に摩り替えられ、中身よりも耳心地のよさを求められる。心の伴わない、フォーマリティな言葉が車内で「○○線をご利用いただきありがとうございました。・・・・はおやめください」と祝詞の如く、繰りかえされる。それは、思いやりのある呼びかけとしてありがたく聞くべきであり、うるさいとか、余計なお世話だとか思ってはいけない言葉なのです。言語論も専門分野である加賀野井先生は、さらに「言葉の記号化」にも着目しています。日本人は、現実をもっと記号的に捉えているのではないかと、掘り下げていきます。「日本人は、ものをじかに見るのではなく、むしろ、名称や、それについての言論、つまりは記号を解してものを見ているのではないか」と読み解いています商店街のセルロイドの桜を見て春を感じられるほどに、日本人は記号化されてしまっているのです。まとめてみると、日本人は「言霊思想」に操られ、他者を思いやるような言葉や湾曲表現をも「祝詞」として受け止め、定型的な「記号」を生の体験と擦りかえることができる。「独自に言語化された騒音を騒音と感じさせないフィルターの役割」を私たちは感じ取ることができない。否、言い換えれば「選択的に敏感であることは、選択的に鈍感でもある。」だから騒音から身を守ることができる、と中島先生の問いに対応しています。 祝詞・・・「いつもお世話になっております」「ありがとうございます」「申し訳ございませんが」etc、いわゆる「相手を不快にさせないワンクッションの言葉」になだめられて生きている自分を再確認すると共に、こうした言葉が「サービスの一環」に成りえる国なんだと客観的に日本を観察しました。通りいっぺんではなく、私に向けて、相手から発せられた言葉は心に届きます。それに気づける感性を鈍らせないようにしたいものです。